義和団の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
北京占領後の1900年9月に、連合軍にドイツからヴァルダーゼー元帥率いる数万人の兵力が増強され、彼が連合国総司令官になると、北京周辺の度重なる懲罰的掃討作戦を展開した。各国を合わせると計78回に及ぶ義和団残党狩りが行われ、それは山海関や保定、山西省と直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたった。特に多くの掃討戦を行ったのはドイツであって、約半分を占めている。 またロシア帝国軍はこの時満州占領を企図して進駐した。6月に義和団がアムール川沿いのロシアの街ブラゴヴェシチェンスクを占領すると、報復としてロシア領内にあった中国人居住区である江東六十四屯を崩壊させ、さらに南へ軍を進め東三省(満州)一帯を占領した。これが後々日露戦争の導火線の一つとなった。右表に明らかなように、実は北京陥落以後の方が投入された兵力は多く、最大71,920名に上る。義和団の乱後の清朝における勢力扶植に努めるためであった。
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