義和団・清朝軍の軍事能力について
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「義和団の乱」の記事における「義和団・清朝軍の軍事能力について」の解説
激戦はいくつかあったが、連合軍は全体的にみて苦戦したというわけではなかった。清朝軍と義和団は、連合軍と比べ圧倒的な兵数を有していたものの、装備という点で全く劣っていたためである。例外は大沽砲台や聶士成の武衛前軍、馬玉崑率いる武衛左軍といった近代化部隊であったが、これらすら兵器の扱いに不慣れな兵士が多かったために、効果的な運用ができなかったという。中には「所々ニ於ケル自己ノ弾薬ノ破裂ハ、遂ニ抵抗シ得サルニ至ラシメタリ。敵(清朝兵:加筆者)ノ死屍七八百ハ砲台内ニ横タワレリト云フ」(大沽砲台の攻防についての日本軍の批評)とあるように、訓練不足のため近代兵器を活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至ってはその装備していた武器は剣槍がほとんどで、銃器を持った者など僅かしかいなかった。 また軍隊組織としてみた場合、義和団は言うに及ばず、清朝軍すら全体を統括指揮する能力に欠けており、その点も前近代的であると日本軍からは評されている。しかし日本軍も彼らを決して侮っていたわけではなく、「彼等ノ携帯兵器多クハ清国在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃ニシテ、皆取ルニ足ラサルモノナリシモ、能ク頑強ノ抵抗ヲ為シ、我兵ヲ苦メタル勇気ハ称スルニ余リ有リ」という声もあるように、士気はすこぶる高かったようである。ただ作戦・装備が劣る点を士気によって補おうとする姿勢は、多くの犠牲を生むことになり、この戦乱の死傷者の多くは義和団あるいは清朝軍の兵士で占められた。
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