義和団の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となる。 当時の義和団にはいくつかのグループがあり、有名な指導者には王成徳や宋福恒、張徳成といった人々がおり、各々が数千人の義和団をまとめていた。変り種としては、女性だけを成員とする義和団もあった。「紅灯照」である。その首領は「黄蓮聖母」という。 首都北京近辺における義和団の横行を許したのは、義和団の強大化だけが原因ではない。西欧列強の強い干渉によって清朝は鎮圧を行おうとしたが、義和団の「扶清滅洋」(ふしんめつよう、意味:清を扶〔たす〕け洋を滅すべし)、あるいは「興清滅洋」(清を興〔おこ〕し洋を滅すべし)という清朝寄りのスローガンに対し、さきの毓賢同様同情を示す大官が複数おり、徹底した弾圧には至らなかった点も原因の一つである。列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、義和団への対処に手心を加えることとなった。一説にはおよそ20万にのぼる義和団が北京にいたという。 こうして義和団が我が物顔で横行するようになり、しばらくすると、不測の事態が発生し清朝を慌てさせた。1900年6月10日、20万人の義和団が北京に入城する。甘粛省から呼ばれて北京を警護していた董福祥(とうふくしょう)配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が殺害され、6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー(Clemens von Ketteler)が清国軍の神機営に殺害された。
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