義和団の台頭-山東省の状況-
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「義和団の乱」の記事における「義和団の台頭-山東省の状況-」の解説
乱の主体となった義和団は山東省で発生した。19世紀末、山東省ではドイツの進出が目立つようになり、それに伴い仇教事件が頻発するようになった。ドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、孔子の生地である曲阜をキリスト教布教の観点からも特に重視していた。そして山東省における熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに高まっていったのである。 義和団は、 太平天国における拝上帝会のようにその起源を単一のものに特定できない。そのため白蓮教的な拳法に由来するという説と、団練という地方官公認の自警団に求める説とがある。以下は日本及び中国で比較的支持されている説に基づく。 山東には元々大刀会という武術組織があった。この会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっていた。やがてカトリック信者と一般民衆との土地争いに介入。1897年にカトリック側を襲撃し、教会の破壊や神父の殺害を決行した(曹州教案)。こうした動きに対してのドイツの抗議をうけた清朝が弾圧し、一旦鳴りを潜めるようになる。しかし1899年になると山東省の西北方面に勢力を拡大し、そのころ神拳という一派と融合していった。 また山東の別の箇所でも、在地の武術組織とキリスト教が対立する事件が発生した。例によって、教会建設に端を発する土地争いの裁判で不利な判決を言い渡された一般民衆が、梅花拳という拳法の流派に助けを求めたのが、きっかけである。梅花拳はその流派を3,000人ほど集め、1897年に教会を襲撃した。その後、歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため、「義和拳」と改名した。これは反キリスト教を核に梅花拳以外の人々も多く参加し始めた状況に対応する意味もあった。反キリスト教運動が広がりを見せる中で、各地のグループが次第に統合していき、義和拳となったのである。 以上に挙げた武術組織は、極めて強い宗教的性格を有し、内部ではシャーマニズム的な儀式をも行なっていた。そうした組織の崇拝する神は、齊天大聖(孫悟空の神格化)や諸葛亮、趙雲など(庶民の娯楽の『西遊記』、『三国志演義』から神格化されたもの)であった。義和団では、呪術によって神が乗り移った者は刀槍不入をとなえ、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると信じられていた。 義和拳の勢力拡大は燎原の野火の如く急激であったが、それには地方大官が取り締まりに消極的だったことも一因である。山東巡撫毓賢(いくけん)は、義和拳の攻撃対象がキリスト教関連施設に限定されていることをもって、彼らに同情的で、義和拳を取り締まろうとした平原県知県蒋楷を逆に罷免し、義和拳を団練として公認しようとすらした。「義和拳」が「義和団」と呼ばれるようになるのには、こうした背景があったのであり、以下の文章では「義和団」に統一する。 1899年末、毓賢は欧米列強の要求によって更迭され、かわって袁世凱が赴任し義和団を鎮圧した。しかしそれは山東省外への義和団拡大をもたらす結果となった。
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