毓賢とは? わかりやすく解説

毓賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/28 19:35 UTC 版)

毓賢

毓賢(いくけん、Yuxian、? - 1901年2月22日)は、中国末の官僚。佐臣。内務府満州正黄旗イェヘヤンジャ氏(yehe yanja hala、葉赫顔扎氏)。

光緒15年(1889年)、山東省曹州府知府となり、3カ月で盗賊1,500人を殺したことで名を知られるようになった。光緒22年(1896年)、山東布政使に昇進。光緒25年(1899年)に山東巡撫に就任した。

当時の山東省では排外感情が増し、光緒23年(1897年)に大刀会がドイツ人のキリスト教宣教師2名を殺害するという曹州教案が発生して、巡撫李秉衡が解任された。そのような状況の中、山東巡撫に就任した毓賢は「民心用いるべし」として義和拳民を団練に編入し、合法組織の「義和団」が成立した。また義和団に「毓」字の旗を与え、義和団が教会を焼き討ちしキリスト教徒を殺害するのを放置し、キリスト教徒が保護を求めても無視をした。そのため外国の圧力で政府から解任され、袁世凱と交代した。しかし解任後も北京で端郡王載漪・荘親王載勛・大学士剛毅らに義和団を利用するように勧め、西太后にも謁見した。

光緒26年(1900年)になると山西巡撫に復帰。山西巡撫在任中に毓賢の排外主義は更に苛烈さを増し、義和団を使嗾して教会を焼かせ、宣教師を殺害させた。太原では46人の宣教師とその家族(11名の幼児を含む)が殺害、山西省全体では191人の宣教師が殺害され、1万人の中国人信者も殺害され、教会や病院225個所が破壊された。山西省では他の省と比べて最も多く外国人が殺害されたのである。

同年、義和団の乱が鎮圧された後、連合軍は毓賢を戦犯に指名した。9月26日に毓賢は免職となり、新疆省へ流罪となった。そして翌光緒27年(1901年)2月22日、新疆に行く途中の蘭州で処刑された。

毓賢は残忍ではあったが清廉であったので、山西省の人々は祠堂を建てて祀ろうとしたが、朝廷の命令で中止された。

先代
張汝梅
山東巡撫
1899年
次代
袁世凱
先代
鄧華熙
山西巡撫
1900年
次代
錫良




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毓賢」の関連用語

毓賢のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毓賢のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの毓賢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS