ピエール・キュリーとは? わかりやすく解説

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ピエール・キュリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 15:14 UTC 版)

ピエール・キュリー(Pierre Curie、1859年5月15日 - 1906年4月19日)は、フランス物理学者結晶学圧電効果放射能といった分野の先駆的研究で知られている。


  1. ^ a b c d e f g h i エーヴ (2006)、pp.173-201、ピエール・キュリー
  2. ^ a b c d e 米沢 (2006)、pp.99-100、ピエール・キュリー
  3. ^ エーヴ (2006)、pp.222-237、ラジウムの発見
  4. ^ 小泉英明 (1998年). “精密計測による新元素の発見 図7”. ㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所. 2010年12月10日閲覧。
  5. ^ エーヴ (2006)、pp.256-275、苦難続き
  6. ^ “Prof. Curie killed in a Paris street” (PDF), The New York Times, (20 April 1906), http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9402E4DC1438EF32A25753C2A9629C946797D6CF 
  7. ^ エーヴ (2006)、pp.346-369、一九〇六年四月十九日
  8. ^ パサコフ (2007)、pp.85-96、残酷な栄誉
  9. ^ 科学者人名事典編集委員会 編『科学者人名事典』丸善株式会社、1997年3月31日、165-166頁。 
  10. ^ 【怖すぎ】なぜキュリー夫人はノーベル賞授賞式を欠席したのか? <天才科学者の最期> | お知らせ・コラム | 葬式・葬儀の雅セレモニー”. 株式会社 雅セレモニー. 2023年11月26日閲覧。
  11. ^ 伊藤彬 (1998年). “キュリー夫人の死--100年目の真実”. ㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所. 2010年12月10日閲覧。
  12. ^ curie – Britannica Online Encyclopedia” (英語). Britannica.com (2006年4月15日). 2010年12月10日閲覧。
  13. ^ Paul W. Frame. “How the Curie Came to Be” (英語). 201-12-10閲覧。
  14. ^ Paul W. Frame. “How the Curie Came to Be”. 2008年4月30日閲覧。
  15. ^ フランス パリ第6大学ピエール・マリー・キュリー”. 東北大学国際交流課. 2010年12月10日閲覧。
  16. ^ パリのメトロ7号線で探す観光ガイド”. パリ観光ガイドNana. 2010年12月10日閲覧。


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ピエール・キュリー

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マリ・キュリー」の記事における「ピエール・キュリー」の解説

学士獲得後それまで蓄えに頼る生活を変えてマリフランス工業振興協会受託研究行いわずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金全額返納した。 しかし、受託し鋼鉄磁気的性質研究大学勤めていたガブリエル・リップマン工業試験場で行うには手狭困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代知り合った女性新婚旅行パリ来てマリ訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキ(英語版)が悩み聞き、場所の提供を頼めそうな人物紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者ピエール・キュリーだった。 ピエール・キュリーは当時35歳パリ市立工業物理化学高等専門大学(ESPCI)の教職に就いていた。当時ピエールフランスでは無名近かったが、彼はイオン結晶誘電分極など電荷磁気研究成果挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へつながる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスウィリアム・トムソンケルヴィン卿)がわざわざ面会訪ねるほど、フランス国外では既に天才呼び声高かった。 しかし彼自身出世女性との交際など念頭に置いていなかった。勲章断り薄給粗末な研修設備甘んじながら無心研究打ち込む日々送っていた。異性観について、ピエール日記に「女性天才などめったにいない」 と、自身学問的探求心理解してくれない考えていた。 1894年春、初対面ピエール見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家雰囲気湛えていた」と振り返り科学社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという。そしてピエール同じよう感じており、彼はマリ惹かれた。後に娘夫婦加えると家族通算5度ノーベル賞受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い磁気とコヴァルトスキ教授二人天才引き合わせたキューピッド役となった。 ピエール一念発起して学位取得目指し仕上げた対称性保存原理」(キュリーの原理論文写しを彼女に贈り2人の距離は縮まった。そしてマリ自分屋根裏部屋に彼を招待しピエール貧しく慎ましい女に打たれた。お互いに尊敬し信頼し合う親密間柄になった2人だが、マリはいつかポーランド帰る誓っていた。1894年7月数学学士資格得たマリ夏季休暇利用してワルシャワ里帰りしたが、再びフランスに戻るかどうか決めかねていた。彼女は働き口探してみたが、ヤギェウォ大学女性雇い入れなかった。その間ピエールマリに、求婚の手紙を何度も送り10月マリパリ帰ってきたピエール熱意直接マリ語り一緒にポーランド行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズ受諾したのは1895年7月になった1895年7月26日質素な結婚式が行われた。新婦ドレス義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴もない式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた祝福の中で式を終えた2人は、祝い金購入した自転車乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行出発した。こうしてマリは、新しい恋、人生伴侶、そして頼もし科学研究同志得た

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