キュリー【Curie】
ピエール・キュリー
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ピエール・キュリー(Pierre Curie、1859年5月15日 - 1906年4月19日)は、フランスの物理学者。結晶学、圧電効果、放射能といった分野の先駆的研究で知られている。
- ^ a b c d e f g h i エーヴ (2006)、pp.173-201、ピエール・キュリー
- ^ a b c d e 米沢 (2006)、pp.99-100、ピエール・キュリー
- ^ エーヴ (2006)、pp.222-237、ラジウムの発見
- ^ 小泉英明 (1998年). “精密計測による新元素の発見 図7”. ㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所. 2010年12月10日閲覧。
- ^ エーヴ (2006)、pp.256-275、苦難続き
- ^ “Prof. Curie killed in a Paris street” (PDF), The New York Times, (20 April 1906)
- ^ エーヴ (2006)、pp.346-369、一九〇六年四月十九日
- ^ パサコフ (2007)、pp.85-96、残酷な栄誉
- ^ 科学者人名事典編集委員会 編『科学者人名事典』丸善株式会社、1997年3月31日、165-166頁。
- ^ “【怖すぎ】なぜキュリー夫人はノーベル賞授賞式を欠席したのか? <天才科学者の最期> | お知らせ・コラム | 葬式・葬儀の雅セレモニー”. 株式会社 雅セレモニー. 2023年11月26日閲覧。
- ^ 伊藤彬 (1998年). “キュリー夫人の死--100年目の真実”. ㈱医療科学社 月刊INNRRVISION 1998年4月号/財団法人 癌研究所. 2010年12月10日閲覧。
- ^ “curie – Britannica Online Encyclopedia” (英語). Britannica.com (2006年4月15日). 2010年12月10日閲覧。
- ^ Paul W. Frame. “How the Curie Came to Be” (英語). 201-12-10閲覧。
- ^ Paul W. Frame. “How the Curie Came to Be”. 2008年4月30日閲覧。
- ^ “フランス パリ第6大学ピエール・マリー・キュリー”. 東北大学国際交流課. 2010年12月10日閲覧。
- ^ “パリのメトロ7号線で探す観光ガイド”. パリ観光ガイドNana. 2010年12月10日閲覧。
- 1 ピエール・キュリーとは
- 2 ピエール・キュリーの概要
- 3 参考文献
- 4 脚注
ピエール・キュリー
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「マリ・キュリー」の記事における「ピエール・キュリー」の解説
学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した。 しかし、受託した鋼鉄の磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキ(英語版)が悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者ピエール・キュリーだった。 ピエール・キュリーは当時35歳。パリ市立工業物理化学高等専門大学(ESPCI)の教職に就いていた。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へつながる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねるほど、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった。 しかし彼自身は出世や女性との交際など念頭に置いていなかった。勲章を断り、薄給と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた。異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」 と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた。 1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピッド役となった。 ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、2人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった2人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年7月に数学の学士資格を得たマリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、再びフランスに戻るかどうか決めかねていた。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学は女性を雇い入れなかった。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった。 1895年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴もない式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた2人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た。
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