ポーランド人の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 07:01 UTC 版)
1989年の民主化以降のポーランド政府を含め、ポーランド外務省やポーランド人による組織の多くは、占領下のポーランドにあったナチスの絶滅収容所のことを「ポーランドの収容所」と呼ぶのは、ポーランドが設立した収容所であるかのような印象を与える表現であり、無知または悪意によるものとしている。そのためこうした組織は、これに類する表現が用いられていないか監視して、「占領下ポーランドにおける(ナチスの)収容所」とするよう求めている[要出典]。 ポーランドは1939年にナチス・ドイツの侵攻を受けて占領され、政府はロンドンに亡命している。第二次世界大戦中ナチス・ドイツに協力した傀儡政権があったわけではなく、ポーランドに絶滅収容所を置くという決定を下したのはドイツ人である。ナチスが占領下のポーランドに絶滅収容所を置いた理由[要出典]は単純である。 ポーランドはヨーロッパ最大のユダヤ人人口を抱えていた。 東欧の鉄道網は全てナチスの軍事行動によって壊滅状態にあったため、世界史上最大の軍事作戦が展開されていた東部戦線の後方で、ユダヤ人をそれ以上遠くまで移送するために何万という鉄道車両を編成することは兵站学的に不可能であった。 絶滅収容所の存在はドイツの一般市民には極力秘密にしておく必要があった。 一般に考えられているのとは異なり、戦前のポーランドにおける反ユダヤ主義の程度はドイツの政策決定に影響を及ぼすほどのものではなかった[要出典]。占領下のポーランドではユダヤ人を匿おうと支援するいかなる行為も死刑相当の罪とされ、ある家に身を隠したユダヤ人が発見された場合、その家に住む家族全員が死刑に処されたほどである。これはヨーロッパの被占領地域において最も苛烈な法律である[要出典]が、そのような罰則が必要になるほど、多くのポーランド人がユダヤ人を支援していたことを反映している。実際に、ホロコーストの最中にナチスの手からユダヤ人の命を救った非ユダヤ人に対して、戦後イスラエルのヤド・ヴァシェム(Yad Vashem 、ホロコースト記念館)から「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた人物の中で、ポーランド人が最も多い。ユダヤ人あるいはユダヤ人を匿った人物を恐喝したり、何らかの形でナチスのユダヤ人虐殺を手助けしたポーランド市民は、国内軍やその他のレジスタンス運動によって対独協力者と見なされ、のちに死刑宣告を受けることとなった[要出典]。
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