ポーランド人捕虜問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:15 UTC 版)
「カティンの森事件」の記事における「ポーランド人捕虜問題」の解説
1939年9月、ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、赤軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。 ポーランド政府はフランスのパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したが、フランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更に亡命先のイギリスのロンドンへ移された。 1940年9月17日の赤軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。 1941年6月の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首班ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「確かに釈放された」と回答した。
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