ポーランド人蜂起をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)
「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「ポーランド人蜂起をめぐって」の解説
1863年1月、ロシア帝国領ポーランドでポーランド人の自由主義ナショナリズムが高まり、蜂起が発生した(1月蜂起)。プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクはロシアの蜂起鎮圧に協力したが、一方フランス帝国のナポレオン3世は蜂起側に共感を寄せ、自らが国際会議を主導して調停に持ち込むことを考えていた。 各国のナショナリズムを利用してフランスの影響力拡大を図ろうというナポレオン3世の野望に警戒を強めていたパーマストン子爵は、イギリス主導で国際会議を行う必要があると考え、「イギリスにはウィーン条約に基づきポーランド問題に介入する権限がある」との見解をロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフに伝えたが、ゴルチャコフは「ウィーン条約などすでに時効だ」と述べて難色を示した。ビスマルクがゴルチャコフと共同歩調を取ったため、パーマストン子爵も国際会議開催を諦めざるをえなかった。 一方ナポレオン3世はパリでの国際会議を提唱したが、ウィーン体制を破壊しようというナポレオン3世の野心を見て取ったパーマストン子爵はこれに反対を表明して阻止した。
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