条約調印と将軍継嗣の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:41 UTC 版)
「井伊直弼」の記事における「条約調印と将軍継嗣の決定」の解説
「日米修好通商条約」および「将軍継嗣問題」も参照 直弼自身は、勅許なしの条約調印には反対であった。6月中旬、清国でアロー戦争が休戦となったことをきっかけに、ハリスは神奈川沖まで廻航し、戦勝の勢いに乗った英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結ばれた下田条約を超える内容の条約を要求してくるであろうから、速やかに米国と条約を締結してこれに備えるべきと勧告してきた。これを受けて6月18日に行われた幕閣会議では、直弼と若年寄・本多忠徳のみが勅許を得てからの条約調印を主張した。急ぎ勅許を得る間、調印を引き延ばすようハリスと交渉するため、井上清直と岩瀬忠震を派遣したが、即刻の調印を目指していた井上と岩瀬は、やむを得ない場合は調印していいかと直弼に尋ね、直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように(已むを得ざれば、是非に及ばず)」と答えた。これを受け、井上と岩瀬は調印承諾の言質を得たと判断して、6月19日にポーハタン号のハリスの許に行くとその日のうちに日米修好通商条約に調印した。 勅許を得られぬまま条約調印が行われた事態に直弼は大老辞職の意思を宇津木景福ら側近に漏らしたが、宇津木らに「いま辞職すれば一橋派を利するだけである」と諫言されて翻意している。6月23日、直弼は堀田正睦と松平忠固を老中職から罷免し、代わって太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用した。 6月24日、松平慶永、徳川斉昭と水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕が江戸城に押しかけ登城した。斉昭らは幕府の違勅調印を非難し、事態収拾のため一橋慶喜を将軍継嗣とすることと松平慶永の大老就任を要求したが容れられなかった。翌25日、幕府は徳川慶福の将軍継嗣決定を公表した。7月5日から6日にかけて、幕府は斉昭ら4名と一橋慶喜に隠居、謹慎、登城停止などの処罰を行った。慶福は名を徳川家茂と改め、12月1日に将軍宣下を受けた。
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