条約締結後の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 19:03 UTC 版)
済物浦条約の締結によって日朝両国間の懸念は消滅したものの、漢城に日清両国軍が駐留することになるなど、朝鮮をめぐる日清両国の対立関係が明確になった。しかし、大院君を捕らえ漢城城内で事変関係者の拘束を直接行った清国の朝鮮国内における優勢は明らかであり、日本国はしばらく傍観の構えを見せる。 この事件において行われた清国による数々の内政干渉は、朝鮮開化派(独立党)の清国に対する反発を深化させ、一層日本に接近させる結果となった。朝鮮国内は親清国の事大党と親日本の独立党による権力争いが激化し、終には激発した独立党によって甲申政変が引き起こされる。そして懸念どおり漢城に駐留する日清両軍が交戦するという状況が現実のものとなってしまったのだった。 甲申政変後、より一層朝鮮における支配権強化を目指すようになった清国と、親日勢力の失権によって朝鮮における影響力が著しく低下した日本は一層対立を深めていき、終には日清戦争が勃発する。この時、日本側の出兵根拠となったのがこの済物浦条約であり、日本軍に呼応して朝鮮政府を掌握したのが清国の処置に恨みを抱く大院君であった。
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