ダンバーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 04:45 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ダンバーの戦い(英:Battle of Dunbar)
- ダンバーの戦い (1650年) - 1650年9月3日にイングランド共和国司令官オリバー・クロムウェルとスコットランド国民盟約(盟約派・長老派)のデイヴィッド・レズリーとの間に起きた戦闘。
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ダンバーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 03:02 UTC 版)
「ダンバーの戦い (1650年)」の記事における「ダンバーの戦い」の解説
ダンバーに追い込まれた状態となったクロムウェルであったが、無防備に追撃される事になる船での撤退をせずに一縷の望みを賭けてダンバーに残ることを選択した。しかしながらこの不利な情勢は如何ともし難いものがあり、クロムウェル自身もニューカッスル知事に宛てた手紙で「奇跡でも起こらぬ限り突破は不可能だろう」と当時の状況を綴っている。ここに至るまで戦病によって死亡、あるいは本国に兵を送還した事によってクロムウェル直轄の兵は11,000人にまで減少してしまっていた。 しかし、スコットランド軍も国教会やスコットランド議会から予算の面で決戦を急かされており、ついに9月2日早朝にレズリーは数的優位を頼みに全軍をドゥーン・ヒルから北に動かし、スポット村を流れる水路を超えてダンバーに篭もるイングランド軍を殲滅するべく動いた。一方でこれを察知したクロムウェルはスコットランド軍がダンバーのイングランド軍を見通すことが出来るドゥーン・ヒルの陣地から動いた事で逆転の好機が訪れたと捉え、スコットランド軍がスポットの水路を超える前に接敵してスコットランド軍左翼・中央をイングランド軍右翼・中央で足止めして、イングランド軍左翼の背後に隠した鉄騎隊で海岸線からスコットランド軍右翼の右側面に回り込んで奇襲をかければ、ドゥーン・ヒルを背にした隘路に閉じ込められる形となるスコットランド軍は対応しきれないと読んだ(スコットランド軍右翼はドゥーン・ヒルの麓の平坦地に移動していたが、中央と左翼はドゥーン・ヒルに留まっていた)。 2日深夜、暴風雨の中でスコットランド軍はスポット水路を超えられずこの日はその場で野営して明日の決戦に備えたが、イングランド軍は夜闇と悪天候に紛れて一気にスコットランド軍へと肉薄し、イングランド軍は左翼に兵力を厚く敷いて再配置を完了させ、3日未明にジョン・ランバートとチャールズ・フリートウッド率いる騎兵6個連隊がスコットランド軍へと奇襲を仕掛けた。中央でもジョージ・マンクの歩兵部隊がスコットランド軍中央へ攻撃を開始した。 先手を打たれたスコットランド軍ではあったが数では大きく勝っており、なんとか陣形を維持しようとしたものの、スコットランド軍左翼と中央がイングランド軍と交戦状態に入った後に最右翼の海岸線に配したパイク部隊がイングランド軍左翼の背後から突撃してきた鉄騎隊に蹴散らされ包囲が始まると、スコットランド軍は全軍がドゥーン・ヒルに磔にされて平たく引き伸ばされたまま全く機動力を発揮できない状態へと陥り、右翼の崩壊による混乱が全軍に伝播し、隊伍すら維持できず敗走し始めた。イングランド軍は敗走するスコットランド軍を8マイルに渡って執拗に追撃し、甚大な被害を与えた。
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