スコットランドの焦土作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 03:02 UTC 版)
「ダンバーの戦い (1650年)」の記事における「スコットランドの焦土作戦」の解説
クロムウェルは1649年8月から遂行していたアイルランド遠征を本国からの要請で1650年5月に切り上げ、6月にイングランドへ戻っていたが、開戦するにあたってスコットランド侵攻に反対した長年の盟友であるトーマス・フェアファクスを議会軍総司令官から外し、歩兵10,500人と騎兵5,500人を合わせた16,000人の兵を率いて自らがこの戦争の総指揮を執った。最初クロムウェルは議会の命令でフェアファクスの説得に当たったが、第一次イングランド内戦の同盟相手だったスコットランドとの戦闘を嫌がったフェアファクスが拒否して辞職したため、6月26日に議会はスコットランド攻撃とクロムウェルを議会軍総司令官にする決議を下し、クロムウェルは7月22日に国境のツイード川を越え、スコットランド戦役を開始した。 対するスコットランド長老派の司令官デイヴィッド・レズリーは叔父のリーヴェン伯爵アレクサンダー・レズリーと共に三十年戦争などにも参加した従軍経験豊富な指揮官であり、かつて第一次イングランド内戦でクロムウェルと共に王党派と戦った盟友でもあったが、チャールズ1世処刑に憤慨して離反、クロムウェルの敵に回った。 スコットランド軍が度重なる内戦やエンゲージャーズの大敗で負った傷は深く、歩兵18,000人・騎兵8,000人を合わせて総勢26,000人と数の上ではイングランド軍を上回っていたが殆どが新規に雇った兵士であり、練度の面で不安を抱えていた。そこでレズリーは正面切ったイングランド軍との対決を回避し、スコットランドの首都エディンバラ周辺に強固な防御陣地を構成し、エディンバラからイングランド国境にかけての街で焦土作戦を行い、イングランド軍の補給切れを狙った。 短期決戦を企図していたイングランド軍は物資が手薄であり、決戦の機会を与えないレズリーの指揮と焦土作戦によって強固な防衛線を敷くスコットランド軍に有効打を与えられないまま深刻な補給難に陥り、8月にはクロムウェルがスコットランド国教会に嘆願書を送り「キリストの慈悲において自分たちが誤っている可能性について考えてみてください」と要望したものの返事はなかった。物資の欠乏や疫病に苦しめられたイングランド軍は耐えかねてついに沿岸部に向かって後退し、海路で補給を受けるために港町ダンバーに入ったが、これを好機と見たレズリーは一気に兵を前進させ、ダンバー南東で市街やイングランド軍の進軍路となっていたダンバーとベリックを繋ぐ道を見下ろすドゥーン・ヒルに布陣して退路を封鎖しイングランド軍を追い詰めた。
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