スコットランドの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:12 UTC 版)
「合同法 (1707年)」の記事における「スコットランドの状況」の解説
コート派とスクアドロン・ヴォランテの大半が合同支持に回ったことで、合同法はスコットランド議会を通過したが、その裏には多くの動きがあった。まず、スコットランドでは合同を受け入れることで、イングランドからの援助を借りてダリエン計画による損害から回復でき、1705年外国人法の懲罰措置を廃止させることができる、という主張があった。 そして、スコットランド議会議員の多くがダリエン計画に多額の資金を投資しており、合同に賛成票を投じることで補償を受け取れると考えた。実際、合同法の第15条ではザ・イクイヴァラント(英語版)(The Equivalent)と呼ばれる、合計398,085ポンド10シリングの資金がイングランドからスコットランドに支払われることが定められており、その名目はスコットランドの納税者がイングランドの国債支払いに貢献する金額を予め返還することだった。ザ・イクイヴァラントのうち58.6%がスコットランド会社の債権者と株主に支払われたため、実質的にはダリエン計画の投資者への補償となった。 イングランドからの贈賄も要因の1つであり、2万ポンド(24万スコットランド・ポンド(英語版))がスコットランドに送られ、初代グラスゴー伯爵デイヴィッド・ボイル(英語版)がその分配にあたった。うち、スコットランド議会における女王代表であるクイーンズベリー公爵だけでその6割以上にあたる12,325ポンドを受け取っており、この贈賄は18世紀末の詩人ロバート・バーンズの風刺詩の対象になった。イングランドから送られてきた資金は贈賄のほか、ダニエル・デフォーなどスパイを雇うことにも使われ、デフォーはスコットランドにおける合同反対デモについての報告を送った。同時代の合同支持派第2代準男爵サー・ジョン・クラーク(英語版)は後に回想録でもしデフォーがスパイであると見抜かれたら、エディンバラの暴徒は彼をずたずたに引き裂いたのだろうと書いた。 合同条約は当時のスコットランドでは憎まれており、エディンバラやグラスゴーで暴動がおきた。エディンバラではデモ行進があり、合同反対派の指導者は第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンとされたが、後にハミルトン公爵が実は政府側であると判明した。合同がエディンバラで反対された理由にはスコットランド国教会の聖公会化(イングランド化)への恐れ、イングランド化によりスコットランドで唯一の民主とされる部分が奪われることへの恐れ、そして増税への恐れが挙げられる。 合同交渉におけるスコットランド代表のうち、唯一の合同反対派であるサー・ジョージ・ロックハート(英語版)は「全国が合同に反対しているように見える」と述べ、合同支持派である第2代準男爵サー・ジョン・クラーク(英語版)も合同条約が「王国の少なくとも4分の3の人の意向に反する」と述べた。スコットランド議会が合同条約を審議する中、合同に反対する請願がスコットランド各地から津々浦々に送られ、自治都市会議(英語版)も合同に反対する請願を出した。スコットランド議会は結局、合同を支持する請願を1つも受け取られなかった。 合同条約が署名された日、エディンバラのセント・ジャイルズ大聖堂のカリヨネア(カリヨン奏者)は「なぜ私は結婚の日にそこまで悲しむのか」(Why should I be so sad on my wedding day?)を演奏した。やがて、議会は社会不安を鎮めるべく、戒厳令を敷いた。
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