スコットランドへの質入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 22:00 UTC 版)
「シェトランド諸島」の記事における「スコットランドへの質入」の解説
14世紀のオークニー諸島とシェトランド諸島はノルウェー王国の県であった。しかしスコットランドの影響は増していた。オークニー伯Jon Haraldssonは1231年にサーソーで殺害され、彼の死は切れることなく続いてきたノース人のオークニー伯爵の断絶となった。その後のオークニー伯は、スコットランド貴族であるアンガス伯と、シンクレア家のヘンリーが務めた。1380年、デンマークとのカルマル同盟で同君連合となったノルウェーは、島嶼部の高貴な家柄への関心が薄れていった 。1468年、デンマーク・ノルウェー王クリスチャン1世は、スコットランド王ジェームズ3世と婚約していた娘マルグレーテの持参金支払いに対する保証としてシェトランドを抵当に入れた。金が支払われることはなく、シェトランドとスコットランド王との関係は永久となった. 。1470年、初代ケイスネス伯ウィリアム・シンクレアは、自らの称号をジェームズ3世へ譲り渡した 。翌年から、北部島嶼部はスコットランド王権に直接属することとなった。それにもかかわらず、シェトランドとノルウェーの関係が絶えることがなかったことが証明されている。 15世紀初頭から、シェトランド諸島人はドイツ商人のハンザ同盟を通じて島で生産されたものを売っていた。ハンザ商人は、塩漬けの魚、羊毛、バターといった船一隻分の積荷を買い、塩、布、ビールやその他商品を輸入していた。16世紀終わりから17世紀初めは、専制的なオークニー伯ロバート・スチュアートの影響が支配的だった。ジェームズ5世の庶子であった彼は、異母妹であるスコットランド女王メアリーによって島々を与えられていた。ロバートの跡を継いだパトリック・スチュアートはスカロウェイ城の建設を開始したが、1609年に処刑されたため、再びオークニーとシェトランドはスコットランド王のものとなった。1643年、チャールズ1世はオークニーとシェトランドを第7代モートン伯ウィリアム・ダグラスへ与えた。1766年まで保持したモートン伯爵家は、第14代伯爵ジェイムズ・ダグラスの代にシェトランドをローレンス・ダンダスへ売却した。
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