スコットランド・ゲール語詩の収集
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「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の記事における「スコットランド・ゲール語詩の収集」の解説
大学を出るとマクファーソンは生地ルスヴェンで教鞭をとった[要出典]。同い年のトマス・グラハム(英語版)(参照:ナポレオン -獅子の時代-)の家庭教師を務めていたときのことである。出入りのグラハム家邸(モファット(英語版)の町)で、1759年夏(または10月2日)、マクファーソンは、悲劇『Douglas』の作者ジョン・ホーム(英語版)との運命的な知遇を得た(牧師出身のホームはこの頃還俗して第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの私設秘書を務めていた。ビュート伯はスコットランド出身で、次期王がこの翌年に即位するとともに英国最大権力者になった人物である)。 ホームはかねてより、ゲール語を解する知人アダム・ファーガソンから、ハイランド地方にいけば古歌がいまでも残されている、と聞かされており、以来、なんとかそれを入手できないかと切望していた。その旨の会話をもちかけると、マクファーソンは、自分がそうした作品のいくつかを所持していると答えた。ホームが是非見せてくれ、と願い出ると、マクファーソンは、「では先生はゲール語をご存知か?」と訊ね、「いいや、片言も」と答えると、「ならばどうしてお目にかけようができましょうか?」と言った。そこでホームは強いてその英訳の提出を求めた。そしてマクファーソンから得た「オスカルの死」その他の「訳詩」のサンプルを、エディンバラの知人ヒュー・ブレア博士(英語版)らに回覧した。 これらの公達から、マクファーソンは、所持するゲール語詩のありったけすべてを訳すようにうながされ、それらは1760年にエディンバラで『Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse language(スコットランドのハイランドで収集した古代の詩の断片)』(または『古歌の断章』)という題名の小冊子として出版された。名目上は「詩」と称しながら、独特のリズムの散文でつづるマクファーソンの作風はここですでに確立されている。 冊子『断片』の序文でマクファーソンは 「ここに、すこぶる長編の一作.. 英雄詩があるが、もしその企画に充分な奨励が与えられるならば、(この英雄詩)を回収し、翻訳することも達し得るだろう」「本詩集の最後の三篇は、この叙事詩より訳者が入手した断片である.. もし全編が回収できたなら、それはスコットランドやアイルランドの故事について著しき光明を当てることになろう」 などと記している。要するに、本編はじらし程度ですが、もしスポンサーがつきましたあかつきには、かならずスコットランド版『イリアス』全編を手に入れてみせましょう、とほのめかしたのであるが、この好餌に躍起になって飛びついたブレア博士たちサークルは会合をひらき、寄付を募り、マクファーソンに資金面の援助を確約して他の責務をすべて辞職させ、即刻その大叙事詩の探求の旅に送り出した。(ヒュー・ブレアの記憶では、マクファーソンはこの古詩採集紀行に不承不承な様子をみせたというが、胸中は、してやったり、なはずである。後年のスキーン(英語版)も、そんなのは猿芝居だと評している。)。 のちの伝記作家によれば、最初の古歌採集紀行は1760年の8月か9月にはじまり、マクファーソンはインヴァネス州西部から、スカイ島、ノース・ウイスト島、サウス・ウイスト島、ベンベキュラ島らを巡り、約6週間ほどで終えたという。同年末、アーガイル沿岸やマル島へ第2行を果たし、翌1761年1月上旬頃エディンバラに帰参した。これらの紀行には、マクファーソンは、自分よりゲール語が堪能な縁戚のラハラン・マクファーソン(Lachlan MacPherson of Strathmashie)や、アンドリュー・ガリー牧師、アレキサンダー・モリスン大尉(Captain Alexander Morrison/Morison of Greenock, 1717年生-1805年1月28日没)ほかを一行にくわえて同行させ、現地の吟遊詩人や語り部の聞き取りや、記録、また、古写本の収集にくわえ、「翻訳」(つまり『フィンガル』の執筆)も進められた。 マクファーソンらのグループが、どのような作業を経て『フィンガル』を作成したのかはよくわかっていない。古写本から翻訳していったと、ありていのごとく記述する書籍もあるが、そうとなると、どの古写本を使ったかということすら、つかみどころのないことが判明する(#写本の謎に詳述)。最近の研究者(Gaskill 2004)によれば、マクファーソン自身、作品のごく一部しか書面の文献資料に依存しないと強調しているそうである。 マクファーソンの素顔の人物像については、ボズウェルの私日記が1950年に出版されており、とくに1763年当時の生々しい言動が記述されているので、後ほどかいつまんで紹介する(#実録の人物像節)。
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