スコットランド・ゲール語詩の収集とは? わかりやすく解説

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スコットランド・ゲール語詩の収集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 22:12 UTC 版)

ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の記事における「スコットランド・ゲール語詩の収集」の解説

大学を出るマクファーソン生地ルスヴェンで教鞭をとった[要出典]。同い年のトマス・グラハム(英語版)(参照:ナポレオン -獅子の時代-)の家庭教師務めていたときのことである。出入りグラハム家邸(モファット英語版)の町)で、1759年夏(または10月2日)、マクファーソンは、悲劇Douglas』の作者ジョン・ホーム(英語版)との運命的な知遇得た(牧師出身ホームこの頃還俗して第3ビュート伯爵ジョン・ステュアート私設秘書務めていた。ビュート伯スコットランド出身で、次期王がこの翌年即位するとともに英国最大権力者になった人物である)。 ホームかねてよりゲール語解する知人アダム・ファーガソンから、ハイランド地方にいけば古歌がいまでも残されている、と聞かされており、以来、なんとかそれを入手できないか切望していた。その旨会話もちかけると、マクファーソンは、自分そうした作品いくつか所持していると答えたホームが是非見せてくれ、と願い出ると、マクファーソンは、「では先生ゲール語ご存知か?」と訊ね、「いいや、片言も」と答えると、「ならばどうしてお目かけようができましょうか?」と言った。そこでホーム強いてその英訳提出求めた。そしてマクファーソンから得たオスカルの死」その他の訳詩」のサンプルを、エディンバラ知人ヒュー・ブレア博士英語版)らに回覧した。 これらの公達から、マクファーソンは、所持するゲール語詩のありったけすべてを訳すようにうながされ、それらは1760年エディンバラで『Fragments of Ancient Poetry collected in the Highlands of Scotland, and translated from the Gaelic or Erse languageスコットランドハイランド収集した古代の詩の断片)』(または『古歌断章』)という題名小冊子として出版された。名目上は「詩」と称しながら、独特のリズム散文でつづるマクファーソン作風はここですでに確立されている。 冊子断片』の序文マクファーソンは 「ここに、すこぶる長編一作.. 英雄詩があるが、もしその企画充分な奨励与えられるならば、(この英雄詩)を回収し翻訳することも達し得るだろう」「本詩集最後の三篇は、この叙事詩より訳者入手した断片である.. もし全編回収できたなら、それはスコットランドアイルランド故事について著しき光明当てることになろう」 などと記している。要するに、本編はじらし程度ですが、もしスポンサーつきましたあかつきには、かならずスコットランド版『イリアス全編手に入れてみせましょう、とほのめかしたのであるが、この好餌躍起になって飛びついたブレア博士たちサークル会合をひらき、寄付募りマクファーソン資金面援助確約して他の責務をすべて辞職させ、即刻その大叙事詩探求の旅に送り出した。(ヒュー・ブレアの記憶では、マクファーソンはこの古詩採集紀行不承不承様子をみせたというが、胸中は、してやったり、なはずである。後年スキーン英語版)も、そんなのは猿芝居だと評している。)。 のちの伝記作家によれば最初古歌採集紀行1760年8月9月はじまり、マクファーソンインヴァネス西部から、スカイ島ノース・ウイスト島サウス・ウイスト島ベンベキュラ島らを巡り、約6週間ほどで終えたという。同年末、アーガイル沿岸マル島へ第2行を果たし、翌1761年1月上旬エディンバラ帰参した。これらの紀行には、マクファーソンは、自分よりゲール語堪能縁戚のラハラン・マクファーソン(Lachlan MacPherson of Strathmashie)や、アンドリュー・ガリー牧師、アレキサンダー・モリスン大尉(Captain Alexander Morrison/Morison of Greenock, 1717年生-1805年1月28日没)ほかを一行くわえて同行させ、現地吟遊詩人語り部聞き取りや、記録また、古写本収集にくわえ、「翻訳」(つまり『フィンガル』の執筆)も進められた。 マクファーソンらのグループが、どのような作業経てフィンガル』を作成したのかはよくわかっていない。古写本から翻訳していったと、ありていのごとく記述する書籍もあるが、そうとなると、どの古写本使ったということすら、つかみどころのないことが判明する(#写本の謎に詳述)。最近の研究者(Gaskill 2004)によればマクファーソン自身作品ごく一部しか書面文献資料依存しない強調しているそうである。 マクファーソン素顔人物像については、ボズウェルの私日記1950年出版されており、とくに1763年当時生々しい言動記述されているので、後ほどかいつまんで紹介する(#実録の人物像節)。

※この「スコットランド・ゲール語詩の収集」の解説は、「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の解説の一部です。
「スコットランド・ゲール語詩の収集」を含む「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の記事については、「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の概要を参照ください。

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