スコットランド・スピッツベルゲン・シンディケート
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「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「スコットランド・スピッツベルゲン・シンディケート」の解説
1898年と1899年にアルバート大公とスピッツベルゲンを訪れたとき、ブルースは石炭、石膏の存在を見破り、おそらく石油もあると考えた。1906年と1907年の夏、ブルースは再度大公と共にこの多島海に行った。その主目的はプリンス・カール・フォーランド島の測量と地図化であり、この島は以前の航海のときには上陸していなかった。ここでブルースはさらに石炭の鉱脈を発見し、鉄鉱脈の兆候も見つけた。1909年7月、ブルースは鉱物探査会社スコットランド・スピッツベルゲン・シンディケートを設立した。 当時、国際法では、スピッツベルゲンは「無主地」と見なされており、鉱業権や採掘権は登録さえすれば確立された。ブルースのシンディケートは、この地域の中でもプリンス・カール・フォーランド島と、バレンツ島、 エッジ島に所有権を登録した。1909年夏、4,000ポンド(目標額6,000ポンド)が、詳細探査遠征の費用を賄うために投資された。これにはチャーターした船と科学チーム全体が入っていた。しかしその結果は「失望させられる」ものであり、その航海でシンディケートの資金のほとんど全てを吸収してしまった。 ブルースはその後1912年と1914年の2度スピッツベルゲンを訪れたが、第一次世界大戦の勃発のためにそれ以上の開発はできなかった。しかし1919年初期、昔のシンディケートが、より大きく財政の裏付けのある会社に変わった。ブルースは石油を発見することを大いに期待したが、1919年と1920年の科学調査ではその存在を確定できず、新しく石炭と鉄鉱石の鉱脈が発見されたに留まった。この後でブルースは重病になり、関与が続けられなくなった。新しい会社はこの将来有望な事業にその資本の大半をつぎ込み、様々に所有者が変わって1952年まで存在し続けたものの、採鉱から利益を出したという記録は無い。その資産と権利はあるライバル会社に買収された。
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