スコットランド・アイルランドのジャコバイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 01:35 UTC 版)
「ジャコバイト」の記事における「スコットランド・アイルランドのジャコバイト」の解説
ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド地方であった。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。特に1707年に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。1715年の反乱ではマー伯ジョン・アースキンという指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。 一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。ジェームズ2世からアイルランドの統治を任されたティアコネル伯リチャード・タルボットは、カトリック支配の浸透とジャコバイトの拡大に尽くしてアイルランドの大半を制圧、アイルランドをジャコバイトの拠点に変えていった。
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