実録の人物像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 22:12 UTC 版)
「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の記事における「実録の人物像」の解説
マクファーソンの論敵ジョンソン博士の伝記家として有名なジェイムズ・ボズウェルだが、その赤裸々な『ロンドン日記(英語版)』を読むと、少なくともある時期までは、一緒に食事をとったり普通に親しく交友していたことがわかる。1762年12月11日の会話を(逐語訳ではないが)抜粋してみる: マクファーソン:「ハイランド人というものはだな、もてなしがよく、人付合いが好きな連中だ。頑健で不便な生活にもよく耐える。だが、ロンドンに出てくれば、人並みに快楽に甘んじたくもなるものさ」 (中略)彼は、自分が苦悩の恋の犠牲になりやすいたちなんだ、とぼやいた。「田舎で、美しい女性を見たとする。彼女の腕のなかにおれればなんと天国だろう、という想いにかられる。(とても手の届かない高嶺の花だ、とて)嘆息する。落胆する。ところがこちら(ロンドン)ではどうだ、およそ生まれてきたなかで、このうえなく素敵な女性にお目にかかることができる。もし、その誰かさんがお気に召したら?ならば、1ギニー払えば、存分に彼女を楽しむことができる。だが、終わってしまえば、想像ほど素晴らしくものではなかった」 第三人称で、ずいぶんと高尚で感傷的な口調だが、要するに自分自身が、成功してこさえた小金をもって都会で女買いをし、だんだんそれも飽きてきた、ということらしい。 ボズウェルは1763年5月1日、オランダとフランスから洋行帰りのマクファーソンと再会した。同9日、女以外に人生の何にも味わいを感じないが、女もたいして面白くない、と聞かされる。同14日、ボズウェルは、ある椿事がおきたと知らされた。なんとジョンソン博士とマクファーソンが同じ馬車に相席し、いやだいやだ、と言いながら、二人ともにわかに大爆笑したという。その報告をした紳士から、どういことか?と聞かれ、ボズウェルは、人間、途方もなく悲しいときおもわず笑いださずにいられないものです、などと説明した。同日、ブレアがマクファーソンに「なぜイングランドに滞在したがるのだ?おまえジョン・ブル(イギリス野郎)は、好きではなかろう?」と質問すると、マクファーソンは、「ジョン・ブルは嫌いですが、その娘さんたちは大好きなんです」と返答したという。同20日、前夜を婦人たちと過ごしたボスウェルは、その興奮もさめぬまま、朝からマクファーソンによるハイランド詩の朗読を聞かされた。以上が二人の文人のあいだで取り交わされた、その一月のやり取りを余さず列記したものである。(ちなみにボズウェル自身、父親である先代アフレック(オーヒンレック)卿から仕送り停止をくらうなど、放蕩息子の風評をもつ人物だった。)
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