実録の完成
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1934年の進捗状況は、叙述体実録(第一次稿本)全64冊を同年11月中に完成させるなど、前述の通り編修期限の延長に伴う事業功程の変更、職員増員に伴う編集機構の変更などがあり、雑務が多かったにもかかわらず「概して予期以上の成果を収めた」としている。1935年の進捗状況は、同年から官制が公布され人員も増えて本格的な編集が始まり、前述の「大正天皇実録補訂功程予定表」に基づいて編集が行われ、同年5月2日と15日及び12月5日には元側近奉仕者からの談話聴取も行われた。 史料稿本については、天皇在位期間15年分の68冊21,000枚が1932年12月に完成しており、明治時代分は前述の1934年11月26日に内奏された「大正天皇実録編集関係増員理由」によると、既存の編年史料である明宮記4冊(幼少期の誕生した1879年(明治12年)から1888年(明治21年)までを記したもの)と東宮記75冊(皇太子時代の1889年(明治22年)から1912年(明治45年)までを記したもの)の再精査によって史料稿本77冊約20,000枚を見込み、史料稿本は計145冊の約40,000枚を見込んでいる。 このような状況の中、1936年1月8日に大谷正男宮内次官、浅田恵一参事官、渡部信図書頭、金田才平秘書課長、芝葛盛編修課長、久保覚次郎図書寮事務官が宮内次官室に集まり会合を開き、大正天皇十年御式年祭に併わせて実録を完成させることが話し合われ、次のことが決まった。叙述体実録の完成を優先するため、年表・索引の調製と資料稿本の整備を延期する。これにあたって、他の天皇皇族実録の編修に影響を与えないこととし、叙述体実録の完成期限を1936年11月末までとする。実録全体の完成期限は、繰り上げ編集に伴う手戻りが多少見込まれるため半年延期し1937年12月までとする。 その後、1935年中の編修の進展を受け、残りの1902年(明治35年)から1927年(昭和2年)までの約45冊の実録補訂を1936年中に終わらせたのち天皇に奉呈し乙夜の清覧に供し、後日に整理した補訂資料による修訂を行うとしている。この一連の変更のため、年表・索引等の調製と収集した増補資料の整備を1937年に先送りし、収集済みの資料で実録補訂の完成を1936年中に繰り上げる旨の稟請書「大正天皇実録編集ニ関スル件」が図書寮から湯浅倉平宮内大臣に出され1936年2月22日付けで決裁されている。 そして、紆余曲折を経つつも1936年末に大正天皇実録は完成した。1936年12月21日付けの「大正天皇実録完成ニ付報告案」が渡部信図書頭から松平恒雄宮内大臣に出され、「大正天皇御事蹟八十五冊、今般一応完成」などとしている。この報告案に添付されていた別紙「大正天皇実録編集概要」(1936年12月付け)によると、この時点で実録本文は85冊5,086ページとなっており、実録の編纂について「謹ミテ按ズルニ、天皇ノ御治世ハ十有五年ニ過ギザレドモ、東宮御時代ハ二十余年ノ長キニ亘リ、其ノ間地方行啓ノ如キモ殆ンド全国ニ普ク、遠ク朝鮮ニモ及ビ、御降誕ヨリ合セテ四十八年間ノ御事歴ヲ叙セザルベカラザルヲ以テ、御実録ノ謹修ハ必シモ容易ナラズ。」として実録の編纂の難しさを強調し、内容に関しては「時ヲ経ルコト余リニ近キガ為メ機密ニ属スル史料ノ蒐集甚ダ困難ニシテ、結局省内史料ノ遺漏ナキヲ期シ、御日常ノ御起居ヲ主トシ、宮務ニ関スル御治績ノ一斑ヲ叙述スルニ限定セザルヲ得ザルニ至レリ。加之本年ハ十年御式年祭ニ相当スルヲ以テ、本実録ノ完成ヲ更ニ促進セシメ(以下略)」「政治外交軍事等ノ事苟モ機密ニ亘ルモノハ之ヲ他日ノ大成ニ待ツノ止ムヲ得ザリシコトハ恐懼措ク能ハザル所ナリトス。」としており、一部の資料不足から全てを網羅しているわけではなく、大正天皇十年御式年祭に併せるため完成を急ぐなど、不十分さを訴えつつも消化不良のまま編集を終えている。大正天皇実録は図書寮編集課の一部署で編纂されたため少人数体制で、それに加え資料収集の困難さに直面したのに対し、人員・予算・資料に恵まれ、臨時帝室編集局という独立した組織で作られた明治天皇紀とは対照的となっている。 1936年12月22日に、完成した「大正天皇実録」本文85冊は「天皇皇族実録」の一部52冊と共に、渡部信図書頭から天皇(昭和天皇)、皇后(香淳皇后)の分が侍従長と皇后宮大夫へ提出され、皇太后(貞明皇后)の分が皇太后宮大夫へ提出されている。天皇、皇后、皇太后へは翌12月23日に奉呈されている。奉呈の際、式典が催された明治天皇紀と比べ、大正天皇実録では催されず側近に渡すのみで終わっている。 1937年中に行うとしていた年表・索引・実録資料稿本については、渡部信図書頭から松平恒雄宮内大臣へ提出された報告書(1937年12月24日付け)の別紙「大正天皇実録編集事業終了報告」(1937年12月付け)によると、それぞれ、年表上下2冊515ページ、索引7冊825ページ、実録資料稿本218冊66,897ページとして1937年12月に完成し、同年12月27日に年表2冊、索引7冊が皇室に奉呈されている。正誤表1冊も1937年に完成している。実録資料稿本は当初の予定(前述の1934年11月の段階で見込んでいた、史料稿本計145冊約40,000枚のこと)と比べ73冊25,897ページ増加したとしている。編集事業の終了にあたっては「概ネ所期ノ成績ヲ収メ、茲ニ本事業ノ終了ヲ報告スルヲ得ルニ至リシコトハ洵ニ光栄トスル所」としており、一定の水準の内容に達したとの認識を示している。その後、1938年1月7日に出された皇室令第一号によって1934年に出された皇室令第五号が廃止され、これをもって官制も廃止となり編集事業が終了した。「他日ノ大成ニ待ツ」としていた政治外交軍事等に関する内容の編修については、その機会が来ることはなく今に至っている。 なお、本実録の編纂が行われている間、明治天皇紀も宮内省内の臨時帝室編修局で編纂が行われており、明治天皇紀が完成する1933年(昭和8年)までの6年間、2つの天皇の伝記が同時並行で編纂されていたことになる。また、孝明天皇までの歴代天皇、皇族を扱った「天皇皇族実録」全300冊も宮内省図書寮で同時期に編纂されている。
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