編集期限の延長(2回目)と臨時官制公布
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「大正天皇実録」の記事における「編集期限の延長(2回目)と臨時官制公布」の解説
前回の期限延長後、「大正天皇実録部編修事業功程」(図書頭から宮内大臣への年1回の事業報告書)などによると、1932年は順調に編集が進捗し同年4月から明治天皇紀と体裁を合わせるため、編纂済みの編年資料稿本をもとに叙述的編集に着手している。1933年の進捗状況は、誕生から幼年時代までの起草を3冊、皇太子時代の一部10冊と天皇時代の一部2冊の編修を終え、「予定期間内に本実録の完成脱稿を期す」としていたが、問題点も認識されていた。すなわち、少数の人員で短期間に完成させねばならないうえ、各種資料が山積し期間内に採録するのは難しく完璧を期すのは困難であり、期間内に形式上実録は一応完成するが、天皇の動静に関し微細さに欠け、躍如たらしむ内容に乏しいとしている。 このような状況から再び延長の動きが出てくることになり、1934年6月4日付けの「大正天皇実録補訂職員増置ノ件審議経過」によると、1934年5月18日と23日に次官室において官房秘書課、図書寮、内蔵寮、参事官の諸官による会議が開かれ、23日の会議で「大正天皇実録補訂見込書」(同年5月23日付け)が図書寮から浅田恵一参事官へ提出された。見込書によると、短期間に編集を行い、かつ担当者の異動により編集方法に統一を欠いたため内容に精疎がある。その原因は、「年支ノ短小」かつ崩御後間もないため「時期尚早ノ観」があり、資料の調査が困難だったものが多かったからである。これらに関し「整備補填」は必要であり、そのため編集期間を5年延長し、その間に1.「既成実録ニ漏レタル重要資料ノ補填目録」に記載の資料、2.「天皇ノ宮務大権ニ関スル方面ニ於テ補填スヘキ資料」、3.「天皇ノ国務大権ニ因ル方面ノ補填スヘキ資料」、4.「明治天皇紀260巻及び資料稿本1,700冊」の各種補填資料の収集を行うとしている。見込書の末尾には、補填すべき未調査資料はなお多く、宮内関係の未調査の根幹的資料は700冊に上り、内閣各庁文書は推定4,000冊を超え、末端の資料も含めるとさらに数が増えるとしており、期限を5年延長したとしてもなお実録の完成に対して厳しい認識を示している。 しかし、1934年5月30日に行われた会議では期限の5年延長は認められず3年延長に改められたため、3年で編集を終える場合の必要人員や編集体制などを想定した「三ケ年延長結了改正予定」という文書を作り、2案をこの中で示している。第一案は「五ケ年延長ト同一ナル完成ヲ為サシムル場合」で、5年延長の場合に必要な人員は、編集官2人、編集官補4人、雇員4人となり、これを3年で完了させる場合、編纂初期における御用掛1人と嘱託2人が4年間で謄写した資料が約850冊という実績値を考えると、編集官2人、編集官補6人、雇員8人が必要となる。第二案は「五ケ年延長ト同一人員ヲ以テ三ケ年ニ完成セシムル場合」で、編集期間が短くなっても人員が変わらないため、編集者の裁量により内容の取捨選択を図り完成を目指すとしている。 この「三ケ年延長結了改正予定」の内容を詳述した、「大正天皇実録三ケ年昭和九年七月以降 完成計画案」(1934年5月31日付け)が作られ、同年6月4日の会議でこの完成計画案も含め検討され、以下のことが決まった。現在進行中の大正天皇実録編集事業(1927年7月から1935年6月にかけての8年計画)を1934年12月に繰り上げて完成させ、これを第一次稿本と呼称する。大正天皇実録補訂部を設け、1934年7月に判任扱嘱託2人、雇員扱嘱託4人臨時職員を増置し、第一次稿本の補訂を1937年6月までの3年間で完成させるが、資料収集は省内資料を中心に行い、省外資料はできるだけにとどめ、宮廷・外交・軍事等の秘録類の収集は他日に行う。1934年12月中に単行皇室令公布により編集官(奏任)2人、編集官補(判任)4人を増置し、既存の実録編集にあたっている御用掛(奏任待遇)1人、判任扱嘱託2人、先述の第一次稿本の補訂にあたる判任扱嘱託2人を臨時官制公布により増置分の各本官に振り替え充当する。 その後、渡部信図書頭は湯浅倉平宮内大臣に、再度の編集体制の調整を図るべく、「大正天皇実録編集ニ関シ別途稟議案提出致候。右御承認ノ上ハ図書寮臨時職員増置ノ件皇室令ヲ以テ御制定相成度」との上申書(1934年6月18日付け)と、具体的な補訂作業の内容を記した「大正天皇実録補訂功程予定表」が添付された同日付けの人員増置の件に関する稟請書(稟議書)を提出し、同月30日に決裁を受けている。これを受け、1934年7月から判任扱嘱託の尾形鶴吉、種子島時望(種ケ島時望)の2人と専属筆生として雇員扱嘱託4人が増員され実録編集に加わっている。 これら増員の件については、1934年11月26日に行われた昭和10年度各会計予算が内奏された席上で、湯浅倉平宮内大臣より「大正天皇実録編集関係増員理由」が内奏されている。一連の動きの結果、1934年12月20日に大正天皇実録編集に係る臨時職員を増員する皇室令第五号が制定公布され、翌1935年1月から官制が布かれ、三条西公正、武田勝蔵の編集官2人、杉本勲、尾形鶴吉、浅野長夫、種子島時望(種ケ島時望)の編集官補4人、市来邦彦(1937年に松本茂夫と交代している)、基太村尚紀、寺山寿、藤田常道の雇員4人の計10人体制での本格的な実録編集が始まった。なお、落合為誠は1934年12月に依願退職している。
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