スコットランドの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:40 UTC 版)
「1715年ジャコバイト蜂起」の記事における「スコットランドの戦闘」の解説
ジャコバイトはスコットランド北部の軍事行動に成功、インヴァネス、ゴードン城(英語版)、アバディーン、そしてその南のダンディーを次々と落としたが、フォート・ウィリアムは占領できなかった。エディンバラ城にはイングランドと連合したときにスコットランドに支払われた10万ポンドと1万人分の武器があり、ドラモンド卿はジャコバイトを80人を連れて夜襲を仕掛けたが、守備軍は襲撃計画を知って守備に成功した。 10月までに、マー伯の軍勢(2万人近く)はフォース湾以北のスコットランドをスターリング城を除いて全て占領したが、マー伯は優柔不断であり、軍勢2千で南下してパースを占領する決定はおそらくマー伯の部下が下したものである。マー伯の優柔不断により、アーガイル公爵率いるハノーヴァー朝の軍勢は増強するための時間を稼げた。例えば、アイルランド駐留軍(英語版)から増援が派遣されてきた。 10月22日、マー伯はようやく老僭王からジャコバイト軍指揮官の任命を受けた。ジャコバイト軍の人数はアーガイル公の3倍であり、マー伯はスターリング城への進軍を決定した。11月13日、両軍はシェリフミュア(英語版)で会戦した(英語版)。戦闘は決着しなかったが、戦闘の終わりにはジャコバイトの軍勢が4千人、アーガイル公の軍勢が1千人であり、ジャコバイト軍はアーガイル軍を圧迫していたが、マー伯はおそらくすでに勝利したと考えて(アーガイル公は660人を失っており、マー伯の損害の3倍であった)進軍を命じず、パースに撤退した。同日、インヴァネスがハノーヴァー朝の軍勢に降伏(インヴァネス包囲戦(英語版))、ウィリアム・マッキントッシュ・オブ・ボーラム(英語版)率いる小勢のジャコバイト軍はプレストンの戦い(英語版)で敗北した。 国王ジェームズ2世および7世 アーガイル公爵 シェリフミュアの戦い(英語版)
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