再起失敗、処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:34 UTC 版)
「チャールズ1世 (イングランド王)」の記事における「再起失敗、処刑」の解説
ハンプトン・コート宮殿で軟禁されていたチャールズ1世は1647年11月に一旦ワイト島へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と和解契約を結んで第二次イングランド内戦を勃発させたが、1648年8月にプレストンの戦いでハミルトン公率いるスコットランド軍(エンゲージャーズ(英語版))がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑された)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る長老派と徹底抗戦の独立派が対立、12月6日のプライドのパージで長老派が議会から追放、独立派が残ったランプ議会がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった。 1649年1月27日、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズ1世は斬首された。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった(30 January, 1649)。 チャールズ1世の処刑後王政は廃止されイングランド共和国が誕生、これを認めない王党派はチャールズ1世の長男チャールズ2世を擁立し議会派との戦いを継続したが(第三次イングランド内戦)、やがてそれらを平定したクロムウェルが1653年に護国卿となり、ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治した。クロムウェル死後の1660年に王政復古でチャールズ2世ら王党派がイングランドに戻り、チャールズ1世の処刑に関わった人物は「レジサイド」(王殺し)として徹底的に報復され、チャールズ1世は王党派と英国国教会高教会派によってチャールズ殉教王(英語版)として聖人に祭り上げられた。
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