再起失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/06/28 08:19 UTC 版)
1923年(民国12年)3月、劉顕世は唐継虞(唐継尭の弟)率いる滇軍の支援を受け、袁祖銘を追放して貴陽に帰還した。しかし、貴州軍事善後督弁(都督に相当)には唐継虞が就き、劉はその補佐たる貴州軍事善後会弁にしかなれなかった。1925年(民国14年)1月、勢力を盛り返した袁が唐継尭と和解して貴陽に戻り、劉顕世は唐継虞と共に昆明へ撤退する。これにより事実上、劉の軍事上・政治上の経歴は終了した。 1927年(民国16年)10月14日、昆明で病没。享年58(満57歳)。 劉顕世が形成した黔軍の派閥は、その出身地から興義系と呼ばれ、王文華・袁祖銘もその一員であったが、1927年以降は衰えて行き、周西成率いる桐梓系に取って代わられていく。
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