アイリーン・ドナン城占領とは? わかりやすく解説

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アイリーン・ドナン城占領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/18 07:08 UTC 版)

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アイリーン・ドナン城占領

アイリーン・ドナン城
戦争四国同盟戦争ジャコバイト蜂起
年月日1719年5月10日
場所グレートブリテン王国スコットランドアイリーン・ドナン
結果:イギリスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国 スペイン王国
ジャコバイト
指導者・指揮官
チェスター・ボイル大佐(Chester Boyle
戦力
4等艦1隻
5等艦1隻
ポスト・シップ英語版1隻
兵士50
損害
死傷者12 50人全て戦死、負傷または捕虜[1]
四国同盟戦争

アイリーン・ドナン城占領(アイリーン・ドナンじょうせんりょう、英語: Capture of Eilean Donan Castle)は四国同盟戦争中の1719年におきたジャコバイト蜂起での戦闘。イギリス船3隻で構成された偵察艦隊はスペインで占領されていた、スコットランド西海岸のアイリーン・ドナン城を攻撃した。海上からの砲撃の後、艦隊は上陸して城を強襲、守備軍を降伏させた。その後アイリーン・ドナン城は爆破された。

背景

スペインのジュリオ・アルベローニ英語版枢機卿が「アルベローニ計画」を立て、ジャコバイトハイランド地方におけるジャコバイトの味方を支持、ジョージ1世を廃位してジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につかせようとした[2]。これにより、スペインはスコットランドに海兵隊英語版300人と第10代マーシャル伯爵ジョージ・キースなどジャコバイトの指揮官をスコットランドに上陸させた。スペイン軍は蜂起を支援するためにシーフォース卿の住処の1つであるアイリーン・ドナン城に駐留軍を配置した[1]

1719年5月のはじめ、王立海軍は偵察のために船5隻を派遣し、うち2隻はスカイ島沖を、3隻はロック・デュイック英語版の隣のロック・アルシュ英語版を巡航した。10日、ロック・アルシュを巡航した3隻、すなわち44門艦ウスター英語版、44門艦エンタープライズ、20門艦フランバラ英語版はロック・デュイックの北側に錨を下ろした[3]

襲撃と破壊

占領時点でのアイリーン・ドナン城の地図

イギリス艦隊はまず、和平の旗を立てた船で上陸し、交渉しようとしたが、城内のスペイン軍がその船に発砲すると船は召還され、イギリスの戦艦3隻は1時間以上城に砲撃した。しかし強風のためすぐに出撃することはできず、イギリス艦隊は錨を下した[1]

翌朝(5月11日)、スペインの逃亡兵からの情報に基づき、ウスターの艦長で艦隊の指揮官であるチェスター・ボイル大佐(Chester Boyle)はエンタープライズを派遣して弾薬を保存する倉庫を占領しようとしたが、艦隊の記録によると、陸上にいる反乱軍は船が弾薬庫に接近すると、弾薬庫に火を放った。一方、残りのイギリス艦2隻は上陸隊を準備しつつ、城をときどき砲撃した[1][4]

夜、イギリス艦隊は激しい砲撃を援護にしつつ、ボートで兵士を上陸させ、城を包囲させた。上陸軍は城壁を登った後、軽い抵抗しか受けずに城を占領した。これによりイギリス政府軍は「アイルランド人1人、大佐1人、スペインの大尉1人、召使い1人、反乱スコットランド人1人、スペイン人兵士39人」を捕虜にし、「火薬343バレル、マスケット銃弾52バレル」を奪った。政府軍は続いて反乱軍がトウモロコシを貯めた納屋をいくつか燃やした[1][2]

イギリス艦隊はその後2日間をかけてアイリーン・ドナン城を破壊した(破壊は火薬27バレルを要した)。スペイン人捕虜はフランバラに載せられ、リース英語版、続いてエディンバラに連行された[2][5]

蜂起自体は6月10日に装備と補給が不足していたジャコバイトと残りのスペイン軍がグレン・シールの戦いで敗北したことで終結した[6]

アイリーン・ドナンはその後、ジョン・マックレイ=ギルストラップが1919年に再建を開始、1932年に完成するまで200年間廃墟のまま残った。

再建されたアイリーン・ドナン城とロック・デュイックのパノラマ

脚注

  1. ^ a b c d e Smith, pp. 215-218.
  2. ^ a b c Battle of Glenshiel@ads.ahds.ac.uk By A.H Miller. FSA Scot.
  3. ^ Lang & Shields, p. 362.
  4. ^ Battle of Glenshiel@Clan Cameron.org
  5. ^ Excerpts from the official logs of HMS Worcester and HMS Flamborough, available at The Clan Macrae website, retrieved Sept 2013.
  6. ^ Millar, A. H. (1882). “The Battle of Glenshiel, 10th June 1719”. Proceedings of the Society of Antiquaries of Scotland 17: 57–69. http://archaeologydataservice.ac.uk/catalogue/adsdata/arch-352-1/dissemination/pdf/vol_017/17_057_075.pdf. 

参考文献

  • Misión en Escocia (pp. 68–74), Muy Interesante 288, May 2005, Abraham Alonso.
  • A History of Scotland, J. D. Mackie, p. 273, ISBN 0-14-013649-5.
  • The Jacobite Attempt of 1719, William K. Dickson (1895)
  • Bartlam Smith, Lawrence (1987). Spain and Britain, 1715-1719: the Jacobite issue. Garland Pub. ISBN 9780824019327. 
  • Lang & Shields, Andrew & Alice (2012). The King Over The Water. Jazzybee Verlag. ISBN 9783849609344. 

関連項目

外部リンク


アイリーン・ドナン城占領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:52 UTC 版)

1719年ジャコバイト蜂起」の記事における「アイリーン・ドナン城占領」の解説

詳細は「アイリーン・ドナン城占領」を参照 ストーノーウェイ上陸報せが届くと、イギリス海軍からの船5隻は5月初にスコットランド一帯到着したキース命令スペインフリゲート去った後であることを知らなかったため、この船5隻はかなり大きな戦力であり、50門4等艦アシスタンス英語版)、ウスター英語版)、ダートマス英語版)、エンタープライズ、そして24スループのフランバラ(英語版)で構成された。 アシスタンスダートマススカイ島沖を巡航した間、ウスターエンタープライズ、フランバラは5月10日早朝にロック・デュイック(英語版)の北側アイリーン・ドナン沖に錨を下ろした。その夜イギリス軍激し砲撃掩護上陸して城を占領捕虜はフランバラに乗せられエディンバラまで連行された。ウスター艦長ボイルBoyle)の記録によると、捕虜は「アイルランド大尉1人スペイン軍曹1人スペイン39人、スコットランド反乱1人」だったという。 これを知ったジャコバイト本軍内陸進軍したジャコバイトにはすでに選択肢がほとんど残されておらず、海路からの脱出できない上にジョセフ・ワイトマン(英語版率い政府軍インヴァネスから迫ってきていたのであったアイリーン・ドナンではイギリス軍が城を破壊した後も2週間残り反乱軍探しつつ近隣のストロムフェリー(英語版)とラッセイ島(英語版)を略奪した

※この「アイリーン・ドナン城占領」の解説は、「1719年ジャコバイト蜂起」の解説の一部です。
「アイリーン・ドナン城占領」を含む「1719年ジャコバイト蜂起」の記事については、「1719年ジャコバイト蜂起」の概要を参照ください。

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