2度のジャコバイト蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:55 UTC 版)
「ジョージ・キース (第10代マーシャル伯爵)」の記事における「2度のジャコバイト蜂起」の解説
1715年ジャコバイト蜂起では1715年8月27日にマー伯爵がアボイン(英語版)で開いた会議に参加、この会議で老僭王のために決起することが決定された。マーシャル伯爵はシェリフミュアの戦い(英語版)で騎兵2個大隊を率いた。老僭王は12月22日にピーターヘッド(英語版)で上陸、翌日の夜をニューバーグ(英語版)にあるマーシャル伯爵の邸宅で過ごした。その後、マーシャル伯爵は老僭王と合流、以降ダンディーなどでも同伴したが、後に老僭王が亡命するときにマーシャル伯爵もフランスに連れていくという約束は破られた。マーシャル伯爵は最終的には大陸ヨーロッパへの逃亡に成功したが、イギリスでは私権剥奪(英語版)され、財産が没収された。 1719年ジャコバイト蜂起ではルイス島に上陸したスペイン軍の指揮をとった。最初は奇襲でインヴァネスを占領するという計画だったが、タリーバーディン伯爵(英語版)との争いにより遅延が生じ、それが致命的な結果になった。スコットランド本土に上陸した後、ジャコバイト軍はグレン・シールの戦いでジョセフ・ワイトマン(英語版)で襲われて大敗、スペイン軍は降伏、ジャコバイトは山中に散らばった。マーシャル伯爵は重傷を負ったが西部島嶼部に逃亡、数か月間隠れた後スペインに逃れた。 1719年の蜂起が失敗した後は主にバレンシアで過ごし、老僭王との文通を続けた。1740年には老僭王によってマドリードに派遣され、イギリス遠征への援助を求めた。1744年にフランスがイギリス侵攻を計画(英語版)すると、マーシャル伯爵が再びジャコバイト軍を率いることが持ち上がったが、結局1744年の蜂起は取り消され、続く1745年ジャコバイト蜂起ではマーシャル伯爵は参加しなかった。
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