2年間の捕虜生活、収容所からの逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:05 UTC 版)
「リチャード・オコーナー」の記事における「2年間の捕虜生活、収容所からの逃亡」の解説
戦争捕虜となったオコーナーは2年半ほど、フィレンツェ付近のヴィンチリアータ城(英語版)を中心に高官として収容された。ここでは、彼とニームは共に高官待遇で収容されているエイドリアン・カートン・デ・ウィアート少将やオーウェン・テューダー・ボイド(英語版)空軍少将と親交を深めている。収容所の待遇は不快なものではなかったが、彼らはすぐに団結し、脱走を企て始めた。彼らの最初の試みは城壁を乗り越えるというごく簡単なものだったが、結果的に失敗し1ヵ月独房に監禁されることとなった。1942年10月から1943年3月にかけて、彼らは脱走用のトンネルを掘った。そのトンネルを使って2回目の脱走を試みたが、この時はニュージーランド人のジェームス・ハージェスト(英語版)准将とレジナルド・マイルズ(英語版)准将がスイスへの脱走に成功している。オコーナーとデ・ウィアートは1週間ほど捜索の目を誤魔化したが、ポー川谷に位置するボローニャ付近で確保され、再び1ヵ月間の独房生活へと逆戻りした。 オコーナーらは3度目の脱走でついにこれを成功させたが、あくまで1943年9月のイタリア降伏に伴う混乱に紛れたものである。イタリアのレジスタンス運動(英語版)の助けを借りたオコーナー、ボイド、ニームは、ヴィンチリアータ城から移送されているときに逃げ出した。潜水艦と落ち合う手はずが失敗したため、彼らはテルモリまでボートを漕いで向かった。その後、イタリア戦線で連合軍を指揮していたハロルド・アレグザンダー大将に迎え入れられながら、バーリへ至った。1943年12月21日のことである。イギリス本国に帰還すると、オコーナーは1941年に叙勲された騎士団に列せられて中将へ昇進した。バーナード・モントゴメリー大将は第8軍(英語版)の司令官にオコーナーを推していたが、結果として第8軍にはオリヴァー・リース(英語版)中将が着任し、オコーナーは軍団司令官となった。
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