2度にわたる暗殺未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 06:42 UTC 版)
「オリヴィエ・ド・クリッソン」の記事における「2度にわたる暗殺未遂事件」の解説
クリッソンとジャン4世の仲違いが再燃すると、クリッソンはブルターニュ継承戦争時からのジャン4世の仇敵であるパンティエーヴル家側の戦死したシャルル・ド・ブロワと妻ジャンヌ・ド・パンティエーヴルの嫡男ジャン1世・ド・シャティヨン(フランス語版)に娘のマルグリットを嫁がせた。そのため、ジャン4世はクリッソンを恐れるイングランドにそそのかされたこともあり、1387年6月にヴァンヌに議会を開いてブルターニュの諸侯を集めると、そこにクリッソンを誘いこんで捕えてしまった。ジャン4世はクリッソンを暗殺してしまおうとしたが、シャルル6世及びブルターニュの諸侯の介入があり、身代金と共に解放せざるを得なかった。しかしクリッソンも大きな代償を支払い、故郷クリッソン・ジョスラン・ランバルなど10か所の城塞と10万フランの身代金をジャン4世へ渡す羽目になった。 ブルターニュに居場所がないためパリに帰還すると、シャルル6世にジャン4世の犯行を訴えて味方につけ、王家とパンティエーヴル家の威光を背景にブルターニュへの影響力を取り戻そうと図った。シャルル6世もイングランド派のジャン4世に不信感を抱いていたためクリッソンに肩入れしたが、和解を先決と考え、クリッソンとジャン4世の間を調停し両者を和解させた。クリッソンはパリに留まり総司令官として任務に専念した。 だが、ジャン4世はクリッソンの暗殺をもう1度計画、1392年6月13日にクリッソンはジャン4世の策謀でかねてから不仲であるピエール・ド・クラン(後のフランス元帥ジル・ド・レの母方の曾祖父にあたる)に暗殺されかけた。クランはクリッソンの盟友でシャルル6世の叔父の1人・アンジュー公ルイ1世の封臣であるが、ナポリ遠征の留守時にアンジュー公の宝物を盗み、アンジュー公の死の遠因となった。クリッソンは狭い路地で襲われ刃に倒れたが死に至らず、クランの凶行が明るみに出ると、シャルル6世は彼を不敬罪で財産・領地を没収した。ジャン4世と手を組んでいたらしいクランはブルターニュに逃げ込んだが、ジャン4世からは冷淡に扱われた。 クリッソン暗殺未遂の主犯を庇護しているとして、ジャン4世に対してシャルル6世は懲罰のために軍を直卒して遠征したが、メーヌ地方を通過中に突如人事不省に陥った。そのため遠征は中断されたが、シャルル6世の寵臣であったクリッソンに対して、王の叔父である政敵のベリー公ジャン1世とブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)がここぞとばかりに非難中傷を吹き込んだために、クリッソンは失脚し総司令官職を取り上げられジョスラン城へ引きこもった。ブルターニュ諸侯はクリッソンの保護を申し出ていたため、しばらくジャン4世に抵抗を続けていたが、フランスの後ろ盾を無くしたクリッソンはやがて抵抗を諦めていった。一方、シャルル6世の狂気は百年戦争の後半の原因の一つとなる。
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