2年間の中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
1939年の秋に宣戦布告をしたとはいえ、実際にはほとんど戦闘は行われなかった。このため1940年の春には例年よりも規模を縮小しながら競馬が行なわれた。ところが5月になると突如としてドイツ軍はフランスへ進攻し、1ヶ月ほどでパリも占領されてしまった。走路が軍の飛行場となっていたシャンティイ競馬場はドイツ軍に明け渡されたが、逃げ遅れて見捨てられた競走馬100頭ほどが餓死した。このなかには1927年の優勝馬モンタリスマン(Mon Talisman)も含まれていた。ファリスはドイツ軍に接収されて連れ去られてしまった。 1940年の秋に占領軍から競馬再開の許可が出た。ロンシャン競馬場は使えなかったため、10月にオートゥイユ競馬場で開催されることとなった。春に施行できなかった3歳牡馬のためのプール・デッセ・デ・プーランと3歳牝馬のためのプール・デッセ・デ・プーリッシュは一つにまとめて「エッセ賞」として10月の末に行なわれた。本来は夏に行われるフランスダービーは11月に「シャンティイ賞」として行なわれた。パリ大賞、カドラン賞も代替競走が行われた。通常であればこれらの勝者が凱旋門賞に集まるところだが、秋の短い期間にクラシック競走と凱旋門賞すべてを連戦するのは明らかに無理であると考えた主催者は、この年の凱旋門賞も中止した。
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