論争・先取権争い・感情的確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 18:51 UTC 版)
「アイザック・ニュートン」の記事における「論争・先取権争い・感情的確執」の解説
ニュートンは同時代の人々としばしば争っていたことが知られている。 1660年代にはライプニッツと微分積分法の先取権をめぐって争いが生じ、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになった。 1672年にはロバート・フックと光の分散と干渉の理論に関して論争になった。 1680年にはジョン・フラムスティードと彗星をめぐって論争になった。これは1か月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものかという論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だとしたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかったというものである。論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したものの、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、のちに王立協会の会長の地位についたときなどはその地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求するときにはフラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした。またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになったときには、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもした。 1686年には、プリンキピアの出版のとき、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した。
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