論争以後とは? わかりやすく解説

論争以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 04:59 UTC 版)

鶏頭の十四五本もありぬべし」の記事における「論争以後」の解説

以後しばらく山本の論に匹敵するような論説現れなかったが、1976年になって歌人大岡信が「鶏頭十四五本も」(『子規虚子所収)において新説提示した大岡はまず子規がこの句を作る前年加わった根岸記事」という、子規庵を題にした写生文競作注目するこの中で子規自邸の「燃えるような鶏頭」を熱心に称えており、そしてこの鶏頭のためか一斉に枯れてしまったときには恋人死なれたら、こんな心地がするであらうか」と思うほど残念がったことを記している。また同じ「根岸記事」の碧梧桐の作は鶏頭擬人化してその視点で語る文章であったが、そこに「今年の夏から自分らの眷属十四五本が一処に」云々という部分もあった。つまりこの句は一年前の「根岸記事」の思い出当てて眼前にはない去年鶏頭思い出して作られたものであり、当日句会の中では唯一の根岸記事」の参加者であった虚子意識して出されたものだというのである大岡はまた句の中の「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法客観写生語法とは言えず、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様」として上の説の傍証としている。 また正岡子規研究者でもある俳人坪内稔典鶏頭「赤」着目し子規それまでいくつも随筆から「赤」の色に対す子規愛着指摘し、その「赤」前述の誓子の言う「生の深処」に重なると論じた(「鶏頭の句」『正岡子規所収1976年)。しかし林桂は、大岡の説については「ぬべし」が「現在に対す語法としては異様」だという説に根拠がなく、辞書用例等から考えてむしろ過去に向けて使うものとする考えのほうが異様であること、また坪内の論についてはそもそも子規邸の鶏頭が黄の種でもありえたこと等をそれぞれ指摘し反論行っている(「鶏頭論」「未定1979年-1980年)。 近年では前述坪内が「鶏頭の句は駄作」(「船団2009年3月)において、子規という作者人生読みまなければ「語るに足らない駄作」であると明言し、もし句会もういちど作者の名を消して出したとしても末期存在感のようなものは感じ取れいだろうと書いている。これに対し高山れおなは「子規人生セットにすることでそこに感動生まれるならセットにしておけばよいではありませんか」と評し、またそもそもこの句が投じられ句会ではほかにも子規鶏頭の句を出しているのだから、この句だけが選ばれ議論されているのは何故なのかということこそ考えねばならないという趣旨批判行った。またこのやりとりに関して山口優夢は、むしろ鶏頭というものに対して十四五本」という、それまでにない言い表し方がぴったり合っていたということが、この句が残った理由であり句の核心ではないか、という見方示している。

※この「論争以後」の解説は、「鶏頭の十四五本もありぬべし」の解説の一部です。
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