論争・カトリック教会の権威
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「マルティン・ルター」の記事における「論争・カトリック教会の権威」の解説
ルターが呼びかけた意見交換会は、結局開かれることはなかった。しかし、『95ヶ条の論題』はすぐにドイツ語に訳され、国内で広く出回り始めた。そして、既存のカトリック教会の体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気に、ルターの論題が火をつけることになった。1518年には、ルターは、論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』を発表した。これに対する反論を記したカトリック司祭ウィンピーナは、「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。ここに至って、神学問題の提起を行ったルターがにわかにローマ教皇への挑戦者という意味合いを持たされることになった。ルターの友人であったインゴルシュタット大学の教授ヨハン・エックは、ルター説はかつて異端と断罪されたヤン・フスの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。以後、二人は激しい論戦を繰り返すことになる。 マインツ大司教アルブレヒトは、自らの収入の道が一神父によって絶たれてはたまらないと、ローマに対してルターの問題を報告した。しかし、ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、聖アウグスチノ修道会に対し、ハイデルベルクでの総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じた。1518年4月のハイデルベルクでの総会で、ルターは、逆に自説を熱く語った。さらに、総会後には、教皇レオ10世に対し、自らの意見を書面にして送付した。教皇庁では「プリエリアス」と呼ばれたドミニコ会の神学者シルヴェストロ・マッツオィーニがこれを審査した。このとき、彼は、教皇権に関する部分についてのみとりあげて解説を加え、教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘した。この時点では教皇もドイツ国内で解決できる問題であると考えていたが、ここで一つの政治的配慮が作用した。ルターが賢公フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)の庇護を受けることになったため、当時の教皇はハプスブルク家への対抗上、賢公をないがしろにはできなかったのである。 このような空気の中で行われた1518年10月のアウクスブルクでの審問は、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めた。しかし、ルターは、「聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められない」と主張した。逮捕を恐れたルターは、アウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者賢公に配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。ルターは、自らの身の潔白を主張し、公会議の開催を求めていた。なぜなら当時は、公会議の決定は教皇を超える権威を持つという公会議主義の思想が色濃く残っていた時代であったからである。ルターの求めた公会議は、やがてトリエント公会議において実現することになる。 教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させているが、結局事態は解決できなかった。そして、教皇庁が秘密裏に交渉を続ける間にも、事態は神学問題を超えて論議を呼んでいたため、神学者ヨハン・エックはルターの盟友ルドルフ・カールシュタットに論戦を挑んだ。1519年7月、ライプツィヒでこの討論会が行われることになり、エックとカールシュタットが議論を戦わせた。やがてルター本人も現れ、エックと論戦を行った。この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わった。事態は政治闘争の様相を帯びてきた。
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