激しい論戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 07:11 UTC 版)
対論は3日にも及ぶ激しい論争となった。陸兄弟は「まず人の心を明らかにし、その後に書物を読んで万物に通じる」ことを主張したが、朱熹は「広く書物を読んでそれらを集約する」ことが重要であると主張。陸象山は「(儒教で理想の世とする)堯舜の時代以前には書物が無かったのにどうやって学問したのか」と問うと、朱熹は「格物致知」すなわち事物に学び理を窮めていくことが聖人に至る道であると強調、両者は全くの平行線をたどった。朱熹は陸兄弟を「太簡空疎(簡略過ぎて中身がない)」と評し、陸兄弟は朱熹を「支離滅裂(言っていることがバラバラ)」と評価。結局3日間の論争でも両者の思想は一致することなく、むしろ互いの考えが根底から相違することを確認する場となった。 以下は陸象山が朱子との論争の間に詠んだ詩である(『陸九淵集』巻三十四)。 墟墓興哀宗廟欽 墟墓に哀を興し宗廟につつしむ 斯人千古不磨心 かの人 千古不磨の心 涓流滴到滄溟水 涓流したたり到る滄溟の水 拳石崇成泰華岑 拳石たかくして成る泰華の岑(みね) 易簡工夫終久大 易簡の工夫つひに久大 支離事業竟浮沈 支離の事業つひに浮沈 欲知自下升高處 ひくきより高きにのぼるところを知らんと欲す 真偽先須辨只今 真偽まずすべからくただ今に弁ずるべし 第二句の「千古不磨の心」がまさに陸象山の心学を表した語であり、それを理解できない朱子の支離滅裂(第六句)な学問は浮き沈みするだけで成果を挙げることはない。真偽はまずこの今を実感することから始めるべきであるという意味である。 なお前述した「まず人の心を明らかにし、その後に書物を読んで万物に通じる」という陸兄弟の主張に基づくならば、陸象山は決して読書を軽視していたわけでなく、心を明らかにした後には、むしろ積極的に読書に取り組まなければならないと考えていたともいえる。実際に陸象山は、杜預『春秋経伝集解』の精読を求め、また自ら『春秋伝』の執筆を企図したこともあった。これらのことを根拠に、この詩は「心」から「読書」という段階的な修養の必要性を説いたものであり、第三・四句、および第七句こそを重視すべきだとする説もある。 これに対し、3年後に朱子は陸象山を批判して以下の詩を返した(『晦庵先生朱文公文集』巻四)。 徳業流風夙所欽 徳業流風し つとに欽ぶところ 別離三載更關心 別離して三載 さらに心に関はる 偶携藜杖出寒谷 たまたま藜杖を携へて寒谷を出で 又枉籃輿度遠岑 また籃輿をまげて遠き岑をわたる 舊學商量加邃密 旧学商量して邃密を加へ 新知培養轉深沈 新たに培養を知り うたた深く沈む 只愁説到無言處 ただ愁ふ 言なきの処に説き到り 不信人間有古今 人間(じんかん)に古今あるを信ぜず 第七句・八句で朱子は陸象山を真っ向から批判し、人間社会には言葉を超えた真理があり、それは時代の変化によっても変わるもので千古不磨の心など存在しないと断言している。 このように結論を得るには到らず、物別れに終わった会ではあったが、当時の二大思想家が直に対面して論争したことの影響は大きく、後世この会を記念して鵝湖山に四賢堂が建立された。朱熹・陸九淵・陸九齢・呂祖謙の位牌が設置され、「頓漸同帰」の字が書かれた扁額が掲げられた。
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