1948年総選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 00:39 UTC 版)
「マリオ・シェルバ」の記事における「1948年総選挙」の解説
1948年4月の総選挙はソビエトとアメリカとのあいだでの冷戦における対立の影響を大きく受けたものとなった。ソビエトが影響を与えた1948年2月のチェコスロバキアでの共産主義クーデターを受けて、アメリカはソビエトの動向に警戒し、また左翼連合がイタリア総選挙で勝利すれば、ソビエトの支援を受けるイタリア共産党を通じてイタリアがソビエトの勢力下に入ることを恐れた。選挙活動は左右いずれの陣営において、イタリア史上でも類を見ないほどの激しい論戦と熱狂を帯びたものとなった。キリスト教民主主義のプロパガンダの過激さは広く知れわたっており、それによると共産主義国では「子どもが両親を留置所に送る」「子どもは国家が所有する」「ひとびとは自分の子どもたちを食べる」と宣伝し、また左派が勝利することになればイタリアに災難が降りかかると唱えた。 内相であったシェルバは、共産主義者が投票日に騒乱を実行するかもしれないという状況に対して、政府は兵力15万の特別部隊を含む33万人規模の部隊を備えていると発表した。 シェルバの強さを最も示すことになったのは1950年の全国規模でのゼネラル・ストライキや市街戦が起こったときのことであった。1950年3月、多くの警察官を含む数百人が負傷し、7,000人が逮捕されるという事件になった。
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