激しい批判と誹謗中傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:02 UTC 版)
しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。1931年(昭和6年)12月に海軍省軍務局長から第3戦隊司令官に転じた堀は、1932年(昭和7年)1月に生起した第一次上海事変に参戦したが、堀は第3戦隊司令官としての行動を末次信正(兵27期)ら艦隊派から強く批判された。 艦隊派の神輿であった皇族軍人の伏見宮博恭王(兵18期相当、昭和7年2月に海軍軍令部長、同年5月に元帥)は下記のように述べた。 堀は実施部隊の指揮官には不適者だ。 — 伏見宮博恭王、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第3巻 337-338頁)』、 1932年(昭和7年)12月に第1戦隊司令官に転じた堀は、1933年(昭和8年)11月に海軍中将に進級すると同時に軍令部出仕(無役)となった。 昭和7年から昭和9年にかけての、艦隊派による堀への批判、事実無根の誹謗中傷・人格攻撃は、堀の妻である千代子が、1934年(昭和9年)に神経衰弱症で入院を余儀なくされるほど激しいものであった。 艦隊派が堀を激しく攻撃して予備役に追いやった理由について、太田久元(2022年時点、立教大学/立教学院史資料センター助教。)は下記のように述べている。 堀が予備役に編入された最大の原因は、堀が現役将官として存在した場合、海相になる可能性が非常に高かったためであった。そして、海相に就任すれば、人事権を行使し、「軍政系」「政軍協調系」が復権し、つまり、それは「軍令系」や「純軍事系」の権限縮小に直結する可能性があったためであった。 — 太田久元、
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