論争ジャーナルと日学同
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1966年(昭和41年)、中国の文化大革命や全共闘運動などが活発化していたこの年、間接侵略に対処できる民兵組織の必要性を考えていた三島由紀夫は自衛隊体験入隊希望し、10月頃から防衛庁に打診するが断られ、毎日新聞社常務の狩野近雄に仲介を依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元陸将・藤原岩市などと接触し口利きを求め続けていた。 そんな三島の元に、民族派雑誌『論争ジャーナル』の創刊準備をしている青年の話を小沢開策から聞いた林房雄の紹介で、12月19日に同誌編集部の万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学卒)が訪ねて来た。万代を気に入った三島は、同誌を中心とする民族派学生たちと親交を結ぶようになる。 1967年(昭和42年)1月5日に、万代潔を副編集長、中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)を編集長とする月刊雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、三島は無償で同誌に寄稿することを約束し、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた。『論争ジャーナル』というタイトルは、当時の左翼学生が必ず読んでいた『朝日ジャーナル』に対抗したものだった。 1月27日には、同じく平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている持丸博(早稲田大学生)も三島宅を訪問し、自身の所属する「日本学生同盟」(日学同)が2月に創刊する機関紙『日本学生新聞』への寄稿を依頼し、三島は快諾した。 やっと防衛庁から自衛隊体験入隊許可を得た三島は、本名の「平岡公威」として4月12日から 5月27日、単身で46日間体験入隊した。久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校、陸上自衛隊富士学校に赴き、山中踏破、山中湖露営などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、レンジャー課程を終え、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した。 論争ジャーナル組、日学同の学生たちも自衛隊体験入隊を希望する中、三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて日学同の付属組織「早稲田大学国防部」(4月に結成)からの選抜協力を要請した。こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が出来上がっていった。
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