論争家
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「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』1962年(昭和37年)8月号上で論争した。松本清張の『日本の黒い霧』等の作品を謀略史観に基づくものとして批判したり、中原中也の評価について、篠田一士と論争したこともあった。 また江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』に対しても資料の扱い方などの点で厳しく批判し、また森鷗外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者尾形仂と論争になった。そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。本作が未完のまま大岡は急逝し、ほぼ9割は完成していたため、中央公論社から刊行された(のち中公文庫に収録)。
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論争家
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「ヒュー・トレヴァー=ローパー」の記事における「論争家」の解説
1950年6月、トレヴァー=ローパーは、シドニー・フック、メルヴィン・J・ラスキー、イニャツィオ・シローネ (en) 、アーサー・ケストラー、レイモン・アロン、フランツ・ボルケナウら反共主義の知識人たちがベルリンに集まって開いた会議に出席し、この会議は文化自由会議の創設と文芸雑誌『エンカウンター』の創刊を宣言した。1950年代から1960年代にかけ、トレヴァー=ローパーは『エンカウンター』誌に頻繁に寄稿していた。 トレヴァー=ローパーの歴史哲学に関する攻撃はアーノルド・J・トインビーやE・H・カーといった専門分野を異にする歴史家にまでおよんだ。トレヴァー=ローパーはまた1950年代から1960年代にかけ、小説家でカトリック改宗者のイーヴリン・ウォーとの間でも、カトリック教会の評価に関して論争をしている。 トレヴァー=ローパーの最も成功した著作の一つは、西欧において中国学の世界的権威と言われてきた中国学者サー・エドマンド・バックハウス (en) の伝記『北京の隠者』(1976年)である。この伝記で、トレヴァー=ローパーはバックハウスの生涯の物語を白日の下にさらし、バックハウスの研究者としての学識は、実質的に見かけ倒しの偽物であったことを暴露した。この本の出版によってバックハウスを典拠とする記述は信用に値しないものになり、バックハウスの著作を数多く引用し続けてきた西洋世界の中国史に関する記述は、書き直しを余儀なくされた。 1960年、トレヴァー=ローパーはオックスフォード大学学長選で古くからの友人で当時イギリス首相を務めていたハロルド・マクミランを支援し、マクミランは学長選挙に勝利した。1964年には友人の現代史講座教授サー・キース・フェイリングの80歳の誕生日に発行された記念論文集 (en) の編集責任者を務めている。1970年、トレヴァー=ローパーは1960年代後半に激化した学生反乱と大学紛争を風刺する「The Letters Of Mercurius」を匿名で著したと信じられている。 トレヴァー=ローパーの影響力の大きさは、彼の記念論集「History and the Imagination」への寄稿者の中に著名な研究者が何人も名を連ねていることからもよく分かる。寄稿者はジェフリー・エルトン、ジョン・クライヴ、アルナルド・モミリアーノ (en) 、フランセス・イェイツ、ジェレミー・カット、ロバート・S・ロペス、マイケル・ハワード、デイヴィッド・S・カッツ、ディミトリー・オボレンスキー (en) 、ジョン・エリオット、リチャード・コブ、ウォルター・ペーゲル、ヒュー・ロイド=ジョーンズ (en) 、ヴァレリー・ピール、そしてフェルナン・ブローデルである。トレヴァー=ローパーの記念論集の寄稿者はアメリカ人、イギリス人、フランス人、ロシア人、イタリア人、イスラエル人、カナダ人、ドイツ人と、国際色豊かである。
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