数千〜2万
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:03 UTC 版)
偕行社編『南京戦史』では「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。編集委員は畝本正己、原剛(防衛研究所調査員)、板倉由明など。 板倉は、中国兵の犠牲者8千人と一般人の虐殺犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする。板倉自身は「虐殺数30万人のみを否定する南京事件派」を標榜している。板倉によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計した。その上で兵士の虐殺数を8,000人-1,1000人と推計し、市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000-8,000人と推計した。結局、兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1〜2万人と推計する。 中村粲(獨協大学教授)もこの説に近い。 他には北村稔(立命館大学)は、従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘した資料で確認している。北村は著作で「南京で大虐殺があった」という認識がどのように出現したかを確認することにしたとする。ただし、これに関する北村の実際の著述内容は、中国側の国際宣伝処にいた曾虚白の主張に基づいて早い時期から国民党の宣伝員であったと、北村が考えるティンパーリの行動を取り上げ、その宣伝員説の根拠付けを図る内容、南京陥落後しばらく南京に潜伏し其の体験や見聞を著わした郭岐の著作の記述内容に対する批判、大小の虐殺事件に対する日本側への擁護論がその殆どとなっている。ティンパーリ・郭岐いずれの本も殺害数は彼らの見聞が及んだ限りのもので、もともと積み上げても死者数が数十万になるようなものではないが、最終的に北村は、南京事件の前になる上海から南京に至る戦火で死者が30万人とする当時の報道や本来はそちらについてのティンパーリの言説があり、それらが南京事件の死者数にすりかえられた、南京裁判ではそれに合わせて30万人という数字が採られた、その為にそれに合わせた史料が作られたと推理している。しかし、南京裁判の前に合わせる必要があるほど死者数30万人という数字が流布していたのか、また、実際に上海-南京間の死者数が南京事件そのものの死者数と世間的に混同乃至入れ替っていった形跡があるのか、調査や検証は行われていない。また、北村は、東京裁判における崇善堂の埋葬数に対する弁護団の反論を取りあげて弁護団のこの活動により判事が崇善堂の埋葬数11万人を認めなかったことが南京裁判30万人と東京裁判松井部分の10万人の死者数の差であろうとする。詳細にみると、二つの裁判では提出された史料の種類と量に差があり、東京裁判の主要部分の判決で10万人の差が埋葬以外の焼却乃至揚子江に流され処分された遺体の数で既に出ている。南京裁判判決の埋葬隊等による埋葬数は15万人以上、東京裁判の主要部分判決の埋葬隊等による埋葬数は15万5千人とほぼ同じである。(松井石根への個別判決部分に限れば虐殺数は10万人とされており、これは単純に松井が責任を負うべきと判断された虐殺数と考えられる他に、例えば松井部分を分担した判事が、彼個人の判断として崇善堂の埋葬数の信頼性を認めなかった可能性や、一般の戦火による死者が混在していたと考え掛け目を取った可能性等もあり得ないわけではない。)その後、北村は2007年4月2日の日本外国特派員協会における講演で、「旧日本軍が南京で゛無秩序〟や゛混乱〟に陥って便衣兵や捕虜を殺害したことはあったが、一般市民を対象とした゛虐殺〟(massacre)はなかったとの結論に達する」」と述べた。
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