欧米人の証言とは? わかりやすく解説

欧米人の証言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:04 UTC 版)

南京事件の証言」の記事における「欧米人の証言」の解説

ベイツとスマイスの南京裁判での証言については「南京事件 (代表的なトピック)#戦後の軍事裁判における扱い」を参照 ジョン・マギー - 南京安全区国際委員会委員南京国際赤十字委員会委員長宣教師であり、被害者南京鼓楼病院(金陵大学病院)への救助活動携わる。ために、担ぎこまれる多く被害者接しまた、本来、外国人でも安全が保障されない安全区外にも果敢に出ていき、被害跡を見ることが多かった為、南京発生していた事態状況証言する為に東京呼ばれた鼓楼病院救助活動にあたり日本兵より被害受けたと言う多数被害者見た経験新路口事件現場跡を見に行ったこと、多数住民連れ去られ城内あるいは下関処刑されたことを聞いたこと、下関行こうとした途中路上民間人死体埋まっていたこと等を、東京裁判証言した日本では伝聞証拠だと寧ろ法律専門家ではない者からの批判にしばしば晒される実際には、彼の発言だけで個々犯罪犯人立証する為の直接証拠として目撃証言求められたわけではなく事件全体像あるいは事件直後被害者の状況を知る為の間接証拠一つとして、あるいは、英米法にしばしば見られる罪体(犯罪となる事実事件そのもの存在)の証明として現場目撃証言求められたものと考えられるマギー撮影したフィルムマギー・フィルム)は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録マイナー・シール・ベイツ- 南京安全区国際委員会委員副委員長格か。南京金陵大学の歴史教授南京裁判証人となる。宣教師としての資格持ち日本に来た時に教会出入りしていた事から、日本人クリスチャン知人多く親中家であると共に親日家としても知られていた。事件前日本家族と共に旅行来ており、上海事変知って家族日本残した儘、急遽南京戻った上海ティンパーリ南京での事件連絡する等、日本軍いわゆる残虐行為抑える為にティンパーリ密かに協力していたが、事件後も親日家である事そのものは変わらなかったという。東中野修道は、当時アメリカ一部新聞写真キャプション書いてあることを根拠に、マイナー・シール・ベイツ中国国民政府顧問であるとする。ただし、これは今の日本でも見られる大学教授などが政府関係委員会メンバー顧問名を連ねることと同様なものとの説がある。ベイツ東京日日新聞昭和12年12月26日では「秩序ある日本軍入城南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」とやむをえない社交辞令新聞側の脚色か、そのような発言をしたとされた。なお、同12月17日号第11面ではベイツは「日支親善のため活躍続けてゐる親日家」と報道されている。証言記録2015年10月ユネスコ記憶遺産登録ルイス・S・C・スマイス - 南京安全区国際委員会委員ベイツ秘書役割果たした南京裁判証人となる。スマイス報告作成者東京裁判では、司法職員の作成によるとみられるスマイスの口供書検察側から証拠提出されたものの、当時スマイスは国際連合乃至その下部機構設立準備に関わっていたため、いわば被告敵側関係者とされる立場(当時国連日独を敵とみなす敵国条項備えた日独の再侵略防止するため団体であった)にあった。スマイス報告作成自体はスマイスの国連準備活動以前だが司法職員の作成による調書となるわけではなくおそらくは国連活動英米法訴訟手続きルールのために敵側人物であるスマイス自身がその信憑性出廷して証言できるかも微妙であったことから提出資料とされなかったものではないか思われる。彼はコピーの残るタイプライター使っていたため、この当時友人・知人・家族出した手紙原文だけでなく、日本を含む大使館関係者出した手紙コピーまで、イェール大学神学部図書館(Divinity Library)の"南京大虐殺資料プロジェクト"(The Nanking Massacre Archival Project)で収集されPDF公開されている。そのうち家族へ私信は、しばしば日本人論者によって、その中の都合の良いわずかな数の箇所抜き出されて、南京残虐事件がなかったかのように利用されるが、実際には、それ以外1ページ約5800字は打てるように思われるタイプライター日記体形式にて4ページ目途中の1937年12月14日部分から最後29ページ目まで殆どギッシリ南京での日本軍残虐行為伝えたのである。(なお、この日記関連してアメリカ人虐殺見た者は無いと主張されることもあるが、外国人らは南京国際安全区事実上押し込められており、そこでの虐殺日本軍避けていたため、外国人らは死体見て虐殺現場そのものを見ることは殆ど無かった。が、それでも実際にニューヨークタイムズのダーディン記者、シカゴディリーニューズのスティール記者等が虐殺現場目撃している。) ベルンハルト・シンドバーグ -当初、英デイリーテレグラフ社記者の運転手をしていたが、その後南京郊外デンマークセメント工場警備雇われ日本軍進出するドイツ人カール・ギュンターとともに工場周辺一帯安全区似た難民キャンプとした。 南京大虐殺紀念館成山館長は、シンバーグは南京大虐殺目撃者であるとする。対して日本では近隣の山向こうの地にやはり同様な難民施設設けた棲霞山寺僧侶依頼受けて、シンドバーグは日本兵掠奪強姦からの保護海外求まる信書翻訳・連絡をしたにとどまるとする主張出されている。が、シンドバーグは写真趣味とし、この当時写真撮りためており、テキサス大学オースチン校には、日本軍残虐行為関連するものもを含む、彼がとったとされる1937-1938年の写真コレクションされている(ただし、時期から見てどれが上海事変のものでどれが南京事件のものであるかは注意要する)。また、エール大学神学部にはシンドバーグとベイツがの間で交わされ日本軍残虐行為に関する書簡保管されているという話がある。近年再認識されるようになった資料では、シンドバーグ自身の方の難民施設では、大きな問題は起こらなかったように見えるが、東京裁判マギーは、そこを訪問した際に、日本兵が女を求めてくるので村長格の者たちが1020程度警戒当たっており、彼らが日本兵要求を断るため日本兵暴力ふるわれる語っていたことを証言している。また、関係性不明であるがカール・ギュンターの遺族からも南京大虐殺紀念館南京事件に関する写真の提供を受けている。

※この「欧米人の証言」の解説は、「南京事件の証言」の解説の一部です。
「欧米人の証言」を含む「南京事件の証言」の記事については、「南京事件の証言」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「欧米人の証言」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「欧米人の証言」の関連用語

欧米人の証言のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



欧米人の証言のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南京事件の証言 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS