欧米人の証言
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ベイツとスマイスの南京裁判での証言については「南京事件 (代表的なトピック)#戦後の軍事裁判における扱い」を参照 ジョン・マギー - 南京安全区国際委員会委員。南京国際赤十字委員会委員長。宣教師であり、被害者の南京の鼓楼病院(金陵大学病院)への救助活動に携わる。ために、担ぎこまれる多くの被害者と接し、また、本来、外国人でも安全が保障されない安全区外にも果敢に出ていき、被害跡を見ることが多かった為、南京で発生していた事態の状況を証言する為に東京に呼ばれた。鼓楼病院で救助活動にあたり日本兵より被害を受けたと言う多数の被害者を見た経験、新路口事件の現場跡を見に行ったこと、多数の住民が連れ去られ城内あるいは下関で処刑されたことを聞いたこと、下関に行こうとした途中の路上が民間人の死体で埋まっていたこと等を、東京裁判で証言した。日本では伝聞証拠だと寧ろ法律の専門家ではない者からの批判にしばしば晒される。実際には、彼の発言だけで個々の犯罪の犯人を立証する為の直接証拠として目撃証言を求められたわけではなく、事件の全体像あるいは事件直後の被害者の状況を知る為の間接証拠の一つとして、あるいは、英米法にしばしば見られる罪体(犯罪となる事実事件そのものの存在)の証明として現場の目撃証言を求められたものと考えられる。マギーの撮影したフィルム(マギー・フィルム)は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。 マイナー・シール・ベイツ- 南京安全区国際委員会委員。副委員長格か。南京の金陵大学の歴史学教授で南京裁判で証人となる。宣教師としての資格を持ち、日本に来た時に教会に出入りしていた事から、日本人クリスチャンに知人も多く、親中家であると共に親日家としても知られていた。事件前も日本に家族と共に旅行に来ており、上海事変を知って、家族を日本に残した儘、急遽南京に戻った。上海のティンパーリに南京での事件を連絡する等、日本軍のいわゆる残虐行為を抑える為にティンパーリに密かに協力していたが、事件後も親日家である事そのものは変わらなかったという。東中野修道は、当時のアメリカの一部の新聞の写真のキャプションに書いてあることを根拠に、マイナー・シール・ベイツは中国国民政府顧問であるとする。ただし、これは今の日本でも見られる大学教授などが政府関係の委員会のメンバーや顧問に名を連ねることと同様なものとの説がある。ベイツは東京日日新聞昭和12年12月26日では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」とやむをえない社交辞令か新聞側の脚色か、そのような発言をしたとされた。なお、同12月17日号第11面ではベイツは「日支親善のため活躍を続けてゐる親日家」と報道されている。証言記録は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。 ルイス・S・C・スマイス - 南京安全区国際委員会委員。ベイツの秘書的役割を果たした。南京裁判で証人となる。スマイス報告の作成者。東京裁判では、司法職員の作成によるとみられるスマイスの口供書は検察側から証拠提出されたものの、当時スマイスは国際連合乃至その下部機構の設立準備に関わっていたため、いわば被告の敵側関係者とされる立場(当時の国連は日独を敵とみなす敵国条項を備えた、日独の再侵略を防止するため団体であった)にあった。スマイス報告の作成自体はスマイスの国連準備活動以前だが司法職員の作成による調書となるわけではなく、おそらくは、国連活動や英米法訴訟手続きルールのために敵側人物であるスマイス自身がその信憑性を出廷して証言できるかも微妙であったことから提出資料とされなかったものではないかと思われる。彼はコピーの残るタイプライターを使っていたため、この当時友人・知人・家族に出した手紙の原文だけでなく、日本を含む大使館関係者に出した手紙のコピーまで、イェール大学神学部図書館(Divinity Library)の"南京大虐殺資料プロジェクト"(The Nanking Massacre Archival Project)で収集され、PDF公開されている。そのうちの家族への私信は、しばしば日本人論者によって、その中の都合の良いわずかな数の箇所が抜き出されて、南京で残虐事件がなかったかのように利用されるが、実際には、それ以外は1ページ約5800字は打てるように思われるタイプライターで日記体形式にて4ページ目途中の1937年12月14日部分から最後の29ページ目まで殆どギッシリと南京での日本軍の残虐行為を伝えたものである。(なお、この日記に関連して、アメリカ人で虐殺を見た者は無いと主張されることもあるが、外国人らは南京の国際安全区に事実上押し込められており、そこでの虐殺は日本軍は避けていたため、外国人らは死体は見ても虐殺現場そのものを見ることは殆ど無かった。が、それでも実際にはニューヨークタイムズのダーディン記者、シカゴディリーニューズのスティール記者等が虐殺現場を目撃している。) ベルンハルト・シンドバーグ -当初、英デイリーテレグラフ社記者の運転手をしていたが、その後南京郊外のデンマークのセメント工場の警備に雇われ、日本軍が進出するとドイツ人カール・ギュンターとともに工場周辺一帯を安全区に似た難民キャンプとした。 南京大虐殺紀念館の朱成山館長は、シンバーグは南京大虐殺の目撃者であるとする。対して日本では、近隣の山向こうの地にやはり同様な難民施設を設けた棲霞山寺の僧侶の依頼を受けて、シンドバーグは日本兵の掠奪や強姦からの保護を海外に求まる信書の翻訳・連絡をしたにとどまるとする主張も出されている。が、シンドバーグは写真を趣味とし、この当時写真を撮りためており、テキサス大学オースチン校には、日本軍の残虐行為に関連するものもを含む、彼がとったとされる1937-1938年の写真がコレクションされている(ただし、時期から見てどれが上海事変のものでどれが南京事件のものであるかは注意を要する)。また、エール大学神学部にはシンドバーグとベイツがの間で交わされた日本軍の残虐行為に関する書簡が保管されているという話がある。近年、再認識されるようになった資料では、シンドバーグ自身の方の難民施設では、大きな問題は起こらなかったように見えるが、東京裁判でマギーは、そこを訪問した際に、日本兵が女を求めてくるので村長格の者たちが10~20人程度で警戒に当たっており、彼らが日本兵の要求を断るため日本兵に暴力をふるわれると語っていたことを証言している。また、関係性は不明であるがカール・ギュンターの遺族からも南京大虐殺紀念館は南京事件に関する写真の提供を受けている。
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