欧米人の日記・記録
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ジョン・ラーベ- 南京安全区国際委員会委員長。日記(日本語訳「南京の真実」)。ジョン・ラーベは日本軍入城後は秩序が安定すると信じていたものの日本軍の行動に裏切られる。日記には、ラーベ等の安全区での活動や日本側との折衝も書かれており、同時に日本軍の暴行や不法殺人も記録されている。一方で、在南京ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長のように、ラーベはアメリカに肩入れしすぎ、中国側からの一方的情報を聞いているだけという批判もある。 ミニー・ヴォートリン- 南京安全区国際委員会の女性委員であり金陵女子大学内に女性をかくまうなど救援し、日記を残した。 ロバート・O・ウィルソン- 南京安全区国際委員会委員であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の医師。本人の手紙。 ジョージ・アシュモア・フィッチ - 南京安全区国際委員会のメンバー。本人の著書「中国での八十年」。 ジェームズ・H・マッカラム- 南京安全区国際委員会委員。宣教師であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の事務管理総括(医師ではない)。マッカラムの1937年12月29日の日記の以下の文章は、日本軍の虐殺否定の証拠として東京裁判に提出された。1937年12月29日「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」。なお同日日記に「私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる」とも記載。マッカラムの日記には他にも日本側の食料提供などを好意的に書いた部分もあるが、12月30日、1月7日の日記には「きょう病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼は九死に一生を得た。ボブ・ウィルソン(引用注:ロバート・O・ウィルソン医師のこと)がほぼ半日かけて傷を縫合した。夕食前に日本兵二人が来て、一二歳の少女を黄色のタクシーで連れ去った。」「プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。」という記載もある。 国民党監修南京安全区国際委員会の記録集『Documents of the Nanking Safety Zone(南京安全地帯の記録)』-この記録を翻訳した否定派の 冨澤繁信は、記録に日本軍兵士の所行とされる根拠がなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは少ないと推論し、しかも記録内容が事実であっても大虐殺説の間違いを証明すると主張した。 ハロルド・J・ティンパーリ-オーストラリア人記者でマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について1938年著作「戦争とは何か」を出版した。この著作は当時イギリス、アメリカ、フランス、コペンハーゲン、中国、日本で刊行され、英米だけで12万冊出版され、日本軍の残虐行為について広く世界に知らしめることとなり、戦後の戦犯裁判にも影響を与えた。この著作には、その内容、信憑性に議論がある#ティンパーリ著作におけるプロパガンダ疑惑。
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