ティンパーリ著作におけるプロパガンダ疑惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)
「南京事件論争」の記事における「ティンパーリ著作におけるプロパガンダ疑惑」の解説
オーストラリア人記者でマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について1938年著作「戦争とは何か」を出版し、この著作は当時英米だけで12万冊出版され、日本軍の残虐行為を知らしめ、極東国際軍事裁判にも影響を及ぼしたが、この内容に対しては、正確性についてや、そのほか多くの批判・議論がある。 まず、中国政府のプロパガンダによる誇張や脚色が存在するという説がある。ティンパーリ著作の内容は、コミンテルンの支援で日本から帰国した郭沫若が中国語版の序文を書き、また日本版は鹿地亘と青山和夫らが序文を書いた(詳細は#中国や連合国側によるプロパガンダとの主張を参照)。また、鈴木明、北村稔、東中野修道によって『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』、国民政府国際宣伝処長の曽虚白自伝(1988年出版)などの中国側の資料が取りあげられ、これらの資料よりティンパーリは蔣介石国民党政府中央宣伝部顧問に就任しており、国民政府の依頼を受けてイギリスやアメリカで戦時プロパガンダを行っていたことが分かる、著作の公平性が疑われると主張した。このほか、南京陥落の翌日に現地に赴いた外交官福田篤泰は、「残虐行為」の存在を否定しないものの、「私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする。また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している。 なお、執筆者の信頼性に関する論議もある。匿名で書かれた第1章「南京の生き地獄」、第2章「掠奪、虐殺、強姦」、第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第4章「悪魔の所為」までは、マイナー・シール・ベイツとジョージ・アシュモア・フィッチが執筆した。ベイツは金陵大学歴史学教授兼安全区国際委員会委員で、国民党顧問であった。フィッチはYMCA支部長で、国民党軍輜重部隊顧問だった。ティンパリーは当時上海におり、南京で見聞した内容ではなかった。 一方、このような批判に対し、渡辺久志は、曽虚白の証言にも問題があり、またティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのも1939年であったといい、井上久士は「曽虚白自伝」が中国側の依頼でティンパーリが書いたとしているのは誤りとしている。笠原十九司は、曽虚白の証言は信憑性がなく採用できないとし、また、ティンパーリの本では主要な部分は南京在住者の手記で構成されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする。なお、ティンパーリやベイツと親しかった新聞記者松本重治の記録では、両名とも日本への好感を持っていたが日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている。 ただし、前述した渡辺久志や笠原十九司はティンパリーが国民党顧問になったのは「戦争とは何か」刊行後の1939年であったために国民党のプロパガンダとティンパリー著作とは無関係であるとする主張に対して、すでに1937年にティンパリーは「戦争とは何か」を発表前に国民党のプロパガンダ工作員となっていたとする反論を、マクヒュードキュメントや董顕光の証言をもとに、展開する意見がある。その説によると、アメリカ海軍情報将校で蔣介石と親しかったジェームズ・M・マクヒュー(英語版)の史料によれば、ティンパリーは南京陥落以前の1937年11月に蔣介石夫妻の私的顧問でオーストラリア人記者ウィリアム・ヘンリー・ドナルド(英語版)から国民党のプロパガンダ工作員に参加するよう勧誘され、いったんは断ったものの、その後、国民政府元財政部長宋子文と月額1000ドル(現在[いつ?]の貨幣価値で約175万円)の報酬で合意したとされる。ただし、これはそのような資料がコーネル大学にあったと産経新聞が報じたものだが、記事では詳しい原文が紹介されていない。その前にティンパーリはジャキノ神父に協力して上海の南市安全区の設置に関わり、日本軍の松井大将に連れ立って会い、安全区設置を認められたほか、当時の金で1万円の寄付を受けることとなった。宋子文が銀行界の大立者であることから、報じられた金も銀行か銀行界からの南市安全区委員会への寄付である可能性が高い。
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