南京軍事法廷
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南京軍事法廷(なんきんぐんじほうてい)は、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた戦犯裁判。中国で戦争犯罪を犯したと目された日本軍関係者が日中戦争中の行為をもとに石美瑜裁判長によるこの法廷で裁かれた。
南京事件に関して

南京事件関連では、第6師団長谷寿夫、同師団の歩兵第45連隊中隊長田中軍吉、および、戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと報じられた向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、谷が1947年4月に、残る3人が1947年12月に死刑判決を受け、処刑された。
- 谷寿夫 - 当時陸軍中将。第10軍隷下第6師団長。1947年3月10日、BC級戦犯として死刑判決を受け、4月26日、同地で銃殺刑、享年64。当人は虐殺は中島・末松らの部隊が行ったものだと主張した(これは指揮官クラスで公に南京事件の存在を認めた唯一のものだとされる。)。しかし、虐殺等について互いに他人の行為を利用して目的を達成しようとした以上、共謀共同正犯として責任を負うとされ、さらに、本人が管轄した中華門一帯でも虐殺事件等が起きていることも指摘され[1]、有罪を免れなかった(なお、共謀共同正犯の共謀は黙示でも良いし、必ずしも事前でなく実行の際でも良いとされる)。この中華門一帯の暴虐行為については、証言を募ったところ四百余人が申し出、公判では八十余人が証言した[2]という。ベイツやスマイスの声明書も公判で提出されている。谷は自身の部下や柳川部隊の関係者を証人として呼ぶことを要請したが、彼らは本来共犯容疑者であり私情から庇うとみられるため判決の根拠に出来ない、要請は単なる時間稼ぎである、として認められなかった[3]。谷当人は上申書を書き、再審を請求したが容れられなかった。
- 田中軍吉- 当時陸軍大尉。第6師団中隊長[4]。300人斬りの容疑で起訴、山中峯太郎編著『皇兵』(昭和15年)のなかの「三百人も斬った隊長の愛刀助広」として説明されたことや中国人の処刑写真などが証拠とされ、死刑判決[5]。処刑写真の処刑者が自分であることを否定できなかったとされる。一方で、反証提出は許されなかった[6]とする説がある。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年42。
- 向井敏明 - 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊[4]。百人斬り競争の容疑で起訴、1947年12月12日、公判、18日死刑判決。東京日日新聞昭和12年12月13日の記事、それを転載したハロルド・J・ティンパーリの書籍が証拠とされた[5]。反証提出は許されなかった[6]とする説がある。百人斬りは自分のホラ話とし、当時の部下を証人として呼ぶことを要求したが、部下の証言では信頼性に欠け単なる時間稼ぎであるとして認められていない。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年36。
- 野田毅- 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊[4]。百人斬り競争の容疑で向井敏明、田中軍吉と共に死刑判決を受けて1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年35。
田中軍吉、向井敏明、野田毅の3名は南京事件について、実行行為者として共同正犯にあたるとされたものであるが、中国軍事法廷は、新聞報道、記者証言、被告人らの証言に対する心証等を元に有罪認定しており、3名の「犯行」の実行を特定する証人については、死人に口なしとはいえ見つけてはいない[7]。なお、被告の中からは百人斬りの話を記者にしたことについて英雄視され良縁を得るためという説明もなされ、これ自体は事件後の実際の事実経過と一致しているのだが、判決文を見るかぎり、裁判官はこれをまともな話と受け取っていないように思われる。[どこ?][誰?]
判決では、南京全体で証言のあった揚子江沿岸での捕虜・難民の虐殺者数、民間篤志団体の集団埋葬者数を積み上げる形で「虐殺被害者総数は三〇万人以上に達する。」[8]と認定、現在の中国政府が主張する(事実上最低で)犠牲者三十万人以上説の根拠となっているが数字の具体的な証拠は一つも残されていない[9]。
その他の中国における軍事法廷
中国国民党政府により開かれた軍事法廷はこのほか、広州、上海(岡村寧次)、北平(北京)、漢口、済南、台北など、中国共産党政府による軍事法廷には瀋陽と太原がある。[10]
ユネスコ記憶遺産
中国政府は南京事件に関する史料をユネスコ記憶遺産へ申請し、2015年、南京軍事法廷における谷寿夫への判決文、マイナー・シール・ベイツの証言、南京法廷による南京事件の調査報告書は、他の事件記録史料とともに登録された[11]。
脚注
- ^ 『南京事件資料集 第2巻 中国関係資料編』(株)青木書店、302-303頁。
- ^ 『南京事件資料集 第2巻 中国関係資料編』(株)青木書店、290頁。
- ^ 『南京事件資料集 第2巻 中国関係資料編』(株)青木書店、304頁。
- ^ a b c 秦郁彦「南京事件 増補版」中公新書、p46
- ^ a b 秦郁彦「南京事件 増補版」中公新書、p49
- ^ a b 朝日新聞昭和22年12月20日。稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』文藝春秋、p117
- ^ 秦郁彦「南京事件 増補版」中公新書、p50
- ^ 南京軍事法廷判決
- ^ 日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 7頁
- ^ 「中国の立場とソ連の立場」『[争論]東京裁判とは何だったのか』93-102頁
- ^ 毎日新聞2015.10.11
参考文献
- 五十嵐武士・北岡伸一(編集) 『[争論]東京裁判とは何だったのか』築地書館、1997年。
- 稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』〈文春新書〉文藝春秋、2007年。
- 南京事件調査研究会『南京事件資料集 2 中国関係資料編』1992年。
- 秦郁彦『南京事件 増補版』中公新書、2007年。
関連項目
南京軍事法廷
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1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明と野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞やその転載翻訳を資料とする『外人目睹中之日軍暴行』を基に南京軍事法廷において「我国人」殺害の容疑でそれぞれ起訴された。12月5日向井の法廷弁論を終えた後、二人の事件は合同裁判に付することとなり、さらに其の後、別の三百人斬りを理由に既に起訴され同月12日にも公判が行われていた田中軍吉(事件当時、第六師団第四五連隊中隊長)と合同公判を行うこととなった。18日に行われた公判ではより多くの人が聞けるよう法廷外にも拡声器を設けられ、石美瑜裁判長によって当日18日には「戦争中捕虜及び非戦闘員に共同で連続して虐殺を行った」として全員死刑判決を受けた。3名は中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。 両名は百人斬りはホラ話あるいは戦闘行為であったと主張、部下を証人として出廷させて欲しいと希望していたものの、部下の証言では信頼性に欠けるとされ、単なる時間稼ぎのための主張とみなされて退けられた。一方で、向井は家族の尽力により、直轄の隊長と浅海記者から弁護のための上申書を出してもらっている。また、両名は競争にブランデーを賭けていたとされる。 北村稔は、ティンパリーによる脚色や『戦争とは何か』の中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったと主張している。 判決は新聞報道は証拠にならないという中国最高法院の判例に違背し、告訴状の「我国人」を説明抜きで「捕虜及び非戦闘員」にすりかえ、判示しているとする主張がある。ただし、世界的には軍事裁判所は通常の司法裁判所とは別系統の独立した特別裁判所となっていることも多く、フランスやアメリカ合衆国のように軍事法廷から一般の司法裁判所等に上訴かその申立が可能になっているのが例外的だする意見もあって、当時の中華民国の最高法院の判例の既判力が及ぶのかは検討の余地がある。(ちなみに、旧日本軍の軍法会議は特別裁判所として、また、軍律審判は行政審判として、大審院をトップとする一般の司法裁判所から別個独立のものであり、そこから一般の司法裁判所への控訴・上訴等は不可能であった。)また、判決書本文の事実認定部分を見ると「老若の別なく逢えば斬り殺した」、「ゲームとして捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争を行った」とされており、裁判の中で検察官の主張あるいは裁判官自身の判断に基づいて、捕虜及び非戦闘員の虐殺があったと事実認定したものと考えられる。なお、この事実認定部分を詳しく見ると、両名は既決の谷師団長による南京虐殺事件の実行行為者として、共同正犯の罪を問われていることが分かる。鈴木明は1972年頃石元裁判長に会い、そのとき録音したテープの中で石は「この3人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、5人の判事のうち3人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には何応欽将軍と蔣介石総統の直接の意見も入っていた」と言っているとその著書で書いている。(ただし、その意見の具体的な内容は書かれていない。鈴木のこの主張は蒋介石はむしろ戦犯を少数にとどめたがっていたとする一般的なイメージとかなり異なる。例えば、岡村寧次元支那派遣軍司令官は、戦犯抑留者の数が増えたことについて中国側から蒋介石は戦犯は最小限にとどめる方針だが民衆から告発投書が続出しているためと聞いた話を真相に近いのではないかと回想しているほどである。) 遺書では、野田、向井共に死刑は天命と諦めるが、捕虜・非戦闘員を殺害した事はない、南京虐殺事件の罪名は受け入れられないと書いている。さらに、向井は、野田君の発言が記事になり、誰が悪いわけでなく人が集まれば冗談も出るとした上で、自身らの行為は明らかに戦闘行為だったとする。鈴木明の著作によれば、浅海記者はもうよく覚えていないとしながらも気の毒に思って向井の家族からの依頼で本人の言った通り上申書を書いたとし、家族の方からは、具体的に書いてもらった内容が語られるものの、百人斬りは浅海記者の創作だと書いて欲しかった、それは無理だったのだろうと語られているが、家族がその点まではっきりと頼んだのかは他の内容が具体的なだけにかえって曖昧なようにも読める。なお、浅海が自身の創作としなかったことについて非難する向きもあるが、これについては、裁判で百人斬りが野田・向井の冗談や誇張だという主張で通すのであればそれが当然だとする論がある。向井自身は、浅海氏からの上申書も本当の証明だったが一ヶ条だけ誤解をすれば悪くとれるし、その一ヶ条だけが人情として気に掛ったと述べながらも、浅海にも(上申書を書いてくれたことに)礼を言ってくれるよう家族に伝えている。 鈴木の著書では、向井の家族が当時の向井の直属隊長と連絡がとれ、その結果、事件当時向井は怪我を負っていて百人斬りなどできない、12月2日に怪我を負い救護班に収容され15日に帰隊し治療すとの証明書を得られたので送った、それで向井の家族は向井を助けられたと信じていたものの、1947年12月20日朝日新聞に向井・野田・田中が死刑を宣告され他の者は反証を提出できたが此の3人は反証を提出できなかったと報じられたことで、向井の弟が狂ったように心当たりを駈けずり回ったが東京と南京の距離は余りに遠かったと書かれている(←鈴木の書き方はこのままこの通りで、結局、家族が具体的に何をして結果はどうであったのか、本質の全く分からない表現になっている。また、重要な問題であると思われるにもかかわらず、著作を読む限り、鈴木自身が言葉が通じなかったとする石元裁判官のところではともかくとして、此の問題について他を調べて廻ったようには見えない。)。「向井は浅海記者の撮った記念写真(←常州で29日に撮られた写真)に写っているのが自分であることを否定できなかった」と石元裁判長は語っているところから、実際に記者らと会って自ら一連の発言を行ったとみなされ、それら取材を受けたこととケガをしたとする話との矛盾の説明ができなかったのではないかと思われる事、証明書といっても元隊長が向井の家族に頼まれて書いた真偽定かでない個人的な書類であった事等が響いたことが考えられる。(笠原十九司は、向井の負傷入院は部下の田中金平の手記に全くそのような記述が無い事、向井本人が後に出征以来病気もケガもないと語っているところから、信頼できないものとしている。)
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