「大覚醒」とその社会的影響
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「「大覚醒」とその社会的影響」の解説
「大覚醒」、「リバイバル (キリスト教)」、および「第一次大覚醒」も参照 独立前の北米大陸で起こった最も大きな宗教的な出来事として、「大覚醒」」と称される信仰復興の動きが挙げられる。信仰復興(リバイバル)とは、衰退した信仰の炎をもう一度燃え立たせようとする営為であり、それが地域集団的に生み出す一種の熱狂である。その後のアメリカ史でも第二次・第三次、あるいは第四次と周期的に繰り返されてきた「大覚醒」であるが、後世の人々が「第一次大覚醒」と呼んで規範としたのは1730年代頃より起こって1740年代にきわめて活発化した信仰復興運動であった。 イェール大学出身でノーサンプトン(現、マサチューセッツ州)の牧師だったジョナサン・エドワーズは、1734年以降に信仰の衰退を嘆いてジャン・カルヴァンの教えに立ち戻り、超越的な神にただ身を委ねることによってのみ人間は堕落した現今の境遇から脱して救済されうると説き、これはすでに制度的に確立して安定期に礼拝も形式的なものとなっていた会衆派の人々の信仰を震撼させた。エドワーズはジョン・ロックの認識論の影響を受け、人は知性よりもむしろ連想を通じて神の存在を直観すると考えた。また、エドワーズは会衆派の牧師として自身の回心の体験を生々しく語り、平信徒にそこでの深遠な力の働きを強く訴えた。『怒れる神の御手の中にある罪人』や『聖なる超自然の光』はこうしたリバイバル説教として有名であり、エドワーズの説教では多くの会衆が気絶や卒倒など激しい反応を示したといわれている。ノーサンプトンの教会では回心を経験する平信徒が相次ぎ、その評判を聞きつけた牧師や平信徒が教会を訪れたことで運動はニューイングランド一帯に広がっていった。エドワーズは『ヨハネの黙示録』の研究者としても著名であり、千年至福(ミレニアリズム)を唱えている。 エドワーズと並んで第一次大覚醒の牽引力となったのが、イングランド国教会の牧師ジョージ・ホワイトフィールドである。1739年以降、13回にわたって北アメリカの地を訪れたホワイトフィールドは、地獄のありさまを生々しく思い浮かべられるよう人々に語り聞かせるなど、その透き通った声と身振り手振りを交えた雄弁な説教により、その場に何千と集まった聴衆を興奮の渦に巻き込んだ。南部のジョージア植民地からニューイングランド北端の現在のメイン州まで、中部植民地(英語版)も含めて巡回したホワイトフィールドの説教は各地で多数の回心者を生み、大覚醒の運動を全植民地規模に広めた。マサチューセッツ湾植民地では、ホワイトフィールドの説教を聞いて回心した農家の息子アイザック・バッカス(英語版)が再洗礼派の信仰に目覚め、1756年にバプテスト教会を創設している。この運動は、回心の体験を支えに独学で教義を学んで精力的に布教するバッカスのような、多数の巡回牧師を生んだのである。 大覚醒の運動は会衆派や長老派の教会に甚大な影響をおよぼし、既成の教会を支持する旧派と回心体験を重視する新派の分裂を招いた。旧派の人々は、大覚醒における救済の歓喜や絶望の悲嘆といった大げさな感情表現、阿鼻叫喚の様相を呈する礼拝、痙攣や引き付けなど激しい身体的反応、それらが普段の日常生活をおよぼす悪影響などを指摘した。この運動の牽引役となった牧師や説教師のなかには節度のある者も少なくなかったが、そうでない者も多数含まれていた。一方、新派の人々は既存の教会や牧師の権威を否定し、自発的な結社としてニューイングランドだけで100以上、中部にあってもおそらくほぼ同数の教会を新たに創設した。大覚醒にたずさわった人々はフロンティアへの布教を重視したので、故郷を後にして新天地に赴き、つながりに飢えた人々がキリスト教的伝統や共同体への帰属をあらためて確認する場となった。その人々のなかにはエドワーズのように先住民布教に熱心に取り組む者もあれば、黒人奴隷の参加も認めて南部植民地(英語版)の奴隷制社会に挑戦する者もあった。ニューイングランドでは回心体験を重視する新派に多くの女性が参加したが、ニューポートのサラ・オズボーン(英語版)もその一人であり、1741年から自宅で女性のための集会を開催し、1765年には黒人奴隷の参加も認め、その頃には彼女の集会の参加者は300人に達していた。 大覚醒運動については、「大規模で総合的な覚醒」「理性の時代のアナクロニズム」「アメリカ思想の主流」「精神上の地震」「ピューリタンからヤンキーへ」など多様な立場からの毀誉褒貶がある。近年では「大覚醒」という歴史事象そのものが従来あまりに過大視されてきたことに対する見直しがなされている。基本的にはどの植民地のどの教派であっても、地域ごとに割り振られた教会の制度を維持し、一般信徒の信仰生活を指導することが最大の関心事だったのであり、これは国教会の教区制度が持ち込まれたヴァージニアなど南部植民地、ルター派、カトリック、クエーカーが混在した中部植民地、会衆派が事実上の公定宗教であった北部のニューイングランド、いずれの地域であっても大きな違いはなかった。大覚醒の運動は、このような多元的な素地に上乗せされた多元化現象ともみなせる。ただし、大覚醒が既存の宗教ばかりでなく、さまざまな社会的権威に対しても批判的な姿勢を打ち出し、一般信徒が自身の信仰とその信仰を共有する人々の連帯を重視するようになったことは重要で、従来、各植民地、そして各植民地におけるそれぞれのカウンティ(郡)やタウンは自治的である反面、相互の交流に乏しかったのに対し、大覚醒はそうした各植民地間の垣根を越えて文化的な絆を醸成することにつながった。そしてまた、自らの信仰を重視して既成の宗教的・社会的権威を否定することは、イギリス本国の権威に対しても自主性を主張することにもつながった。 一方、ヨーロッパで興起した啓蒙主義の思想は滔滔と新大陸に流れ込んでおり、そこにおける合理主義もまた知識人や文化人、エリート層に広く浸透していた。そのため、政治的指導者の多くが理神論に立つような状況にあったが、ここにおいて大覚醒の敬虔主義者たちと理性重視の啓蒙主義者たちは、まったく正反対といってよい宗教上の見解に立脚しながらも「信教の自由」というただ一点において、共闘関係が成立した。それが両者にとって共通の目的たりえたからであり、トマス・ジェファーソンがヴァージニア信教自由法を作成するにあたり、宗教指導者たちの意見を参照したことはよく知られている。
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