「大装飾画」とは? わかりやすく解説

「大装飾画」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 02:16 UTC 版)

睡蓮 (モネ)」の記事における「「大装飾画」」の解説

モネは、19世紀末頃から、一つ部屋を『睡蓮』の巨大なキャンバス埋めつくした「大装飾画」(Grande décoration)を制作する構想をもっていた。美術評論家モーリス・ギユモは、1897年8月モネインタビュー行い、それを翌年3月発表しているが、このときギユモは、モネ当時制作していた、「大装飾画」の習作である大きなパネルを目にしている。このときギユモが目にしたのは、1897年頃に制作された『睡蓮』の初期作なかでも画面サイズ大きいw.1508のような作品であろう推定されている。モネ自身が「大装飾画」という語を用いたことが確認できるのは、1915年にレーモン・ケクラン(当時ルーヴル友の会会長)に宛てた書簡初出である。 モネ自邸2つアトリエをもっていたが、1915年7月には母家東側に、「第三アトリエ」と呼ばれる、大画面制作適したアトリエ造り始めた。この時期以降制作された『睡蓮』は、それ以前のものにくらべて画面大型化している。すでに70歳になっていたモネであるが、1914年から1919年の間には、画面長辺が2メートル近い『睡蓮67点を制作し同時期に描かれた『アイリス3点含めると、計70面もの大画面制作している(w.1782 - 1830, 1848 - 1865)。 モネは『睡蓮』の大壁画を国家寄贈しようと考えクレマンソーに、1918年11月12日付け書簡で、政府への仲介依頼している。この書簡書かれた日は、第一次世界大戦におけるドイツ連合国休戦協定締結され翌日であり、モネ78歳誕生日2日前でもあった。壁画当初パリのオテル・ビロン(彫刻家ロダンアトリエ自邸)の敷地新たなパビリオン建設して、そこに展示される予定であった。しかし、建築家のルイ・ボニエが設計あたったこの建物結局実現することはなかった。財政難のため、1920年フランス議会は同パビリオン建設のための予算否決したのである計画倒れ終わったこのパビリオンは、直径18.5メートル円形平面建物で、その内壁に、横4.25メートルパネル12からなる4つ壁画を飾る予定であった壁画円形室内西側南側東側北側の順に『』(パネル3枚)、『緑の反映』(同2枚)、『アガパンサス』(同3枚)、『三本』(同4)という題名予定されていた。結局壁画設置場所は、チュイルリー公園内のオランジュリー館(現オランジュリー美術館)に変更されることとなる。1921年10月モネはこの変更案を承諾し1922年4月12日国家への壁画寄贈契約書署名している。オランジュリー館の改修設計には建築家のカミーユ・ルフェーブルがあたった契約当時81歳のモネ加齢加え視力低下にも悩まされ1922年9月には絵画制作不可能なほど視力低下していた。翌1923年には3度わたって白内障治療のための手術を受け、同年秋に制作再開できる程度には視力回復した。 オテル・ビロンに建設予定されていたパビリオン円形平面であったのに対しオランジュリー館の展示室は楕円形のものが2室であり、モネ大幅な計画の変更迫られた。完成したオランジュリー壁画は、22パネル構成される8点の作品で、これらの作品の横の長さは、つなげると91メートルに及ぶ(第1室が40メートル、第2室が51メートル)。モネ1926年12月5日死去したが、オランジュリー壁画彼の生前には公開されず、1927年5月17日オランジュリー美術館開館したときに初め公開された。 一つ固定した視点から眺められ遠近法によって秩序づけられた風景オランジュリー壁画にはない。本作品の鑑賞には、展示室内歩きながら、視点移動させつつ見るという身体的体験が伴う。こうした鑑賞者が絵に囲まれ、絵の中に入り込むという発想には、日本襖絵影響指摘されている。 モネは、オランジュリー壁画のために多く習作制作するとともに最終的にオランジュリー収蔵されなかった、多く壁画サイズ画面制作していた。モネ生前にはこれらの「大装飾画」関連の作品群を決し手放さず手元置いていた。20世紀の美術界ではキュビスムシュルレアリスム抽象絵画などさまざまな動きがあり、モネ没後30年ほどは過去巨匠として忘れられ存在であったこのため、「大装飾画」関連の作品群もなかなか買い手付かずモネ邸の第三アトリエ劣悪な環境下で保管されていた。例外的にモネ生前手放されたのは、日本人コレクター松方幸次郎1921年から1922年にかけて売却され2点である。このうち、『睡蓮』は紆余曲折経て1959年東京開館した国立西洋美術館収蔵公開された。もう1点の『睡蓮反映』は、第二次大戦中疎開先で大きな損傷こうむり長年行方不明になっていた。この作品2016年ルーヴル美術館保管されていたことが判明し所有者松方家から国立西洋美術館寄贈された。 1949年スイスバーゼル開催され印象派展きっかけとなり、1950年代入ってからモネへの再評価高まった画家アンドレ・マッソンオランジュリーの『睡蓮』を、「印象派システィーナ礼拝堂」と呼んだ抽象表現主義アンフォルメル、およびそれ以降美術家たち、具体的にジャクソン・ポロックマーク・ロスコサム・フランシスといった作家作品モネとの類似影響指摘されている。現実世界再現から離れ絵画主観的な視覚体験再現として、あるいは「色彩=光」の実現の場としてとらえる20世紀後半絵画潮流に、モネ作品は深い影響与えた

※この「「大装飾画」」の解説は、「睡蓮 (モネ)」の解説の一部です。
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