連作の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)
モネは、自然の中の物や人物が光の作用によってさまざまな変化を見せるという発見をもとに、同じモチーフをさまざまな光の下で描くという連作に進んでいった。1865年、エトルタでモネと知り合ったギ・ド・モーパッサンは、制作中のモネの様子を、「5、6枚のキャンバスは、同じ題材について、さまざまな時間の異なった光の効果を描き留めるものである。天候が変化するのに従って、彼はそれらのキャンバスを順次取り上げるのだった」と紹介している。こうした制作手法は、後の連作につながっていったと考えられる。 ジヴェルニー時代に『積みわら』を描いたとき、30分もすれば光が微妙に変化して積みわらの色が別のものに変わっているのに気付き、それを別のキャンバスに描くことになり、多数の連作を生むことになったという。さらに、『ルーアン大聖堂』や『ロンドンの橋』の連作では、光の効果が更に支配的となっている。モネは、ルーアン大聖堂の向かいの部屋にいくつものキャンバスを並べ、朝から夕暮れまでそれぞれのキャンバスに向かったと伝えられている。その代わり、建物の質感や明確な形態は光の波の中に飲み込まれてしまっている。同時に、明確な形態把握を必要とする人物像は、モネの画面から消えていく。現実の再現というよりは、より主観的な感覚と記憶をテーマとする絵画に向かっており、世紀末芸術の時代に盛り上がってきた象徴主義やアール・ヌーヴォーといった潮流との親近性が見られる。保守派の美術史家ケネス・クラークは、石造の大聖堂が光と色彩に溶融する様子を「溶けたアイスクリーム」と批判した。もともと写実主義的な意図に発していながら、光の表現のために、現実世界に確かに存在する形態や質感を犠牲にせざるを得なかったことは皮肉であり、写実主義の破産を示すものといえる。 連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになっていく。オクターヴ・ミルボーが、「彼の自然との交感(コレスポンダンス)は、他の人々より、もっと直接的である。もっとも賞賛される芸術家とは、自然が隠している神秘にもっとも近づいた人であり、またもっとも謙虚な人である」と評しているが、この時代のモネが体験した光とは、モチーフだけでなく画家自身をも包み、自然との交感をもたらす崇高性を帯びたものであったと解釈される。 造形においても、印象主義の時代のような強いコントラストを避け、色彩の調和を重んじるようになった。また、画面全体を均一な筆触で覆うようになった。 最晩年の『睡蓮』連作では、橋や藤の枝といったモチーフが次第に画面からなくなり、池の水面のみを描くようになった。そして、水面に映し出される光の揺らぎを追求し続けた。モネは手紙の中で、水と反射光だけが絶えず頭の中を去来すると書いている。オランジュリー美術館の「睡蓮」大装飾画では、幻想的な色と光の世界が生み出されている。訪れた人は、楕円形の部屋の中で、水の広がりに包まれ、水面下の深みへ引き入れられるような体験をすることになる。
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