広田豊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 15:18 UTC 版)
広田 豊 | |
---|---|
生誕 | 1892年8月22日![]() |
死没 | 1972年3月21日(79歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1915年 - 1945年 |
最終階級 | ![]() |
広田 豊(ひろた ゆたか、1892年(明治25年)8月22日[1] - 1972年(昭和47年)3月21日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1892年(明治25年)に愛知県で生まれた[1]。陸軍士官学校第27期、陸軍大学校第35期(優等)卒業[1]。アメリカ駐在を経て[2]、1935年(昭和10年)8月にカナダ駐在武官となり[2]、1937年(昭和12年)8月に下志津陸軍飛行学校教官を経て[2]、1938年(昭和13年)1月30日に上海派遣軍司令部附となり[2]、日中戦争に出動[1]。3月1日に陸軍航空兵大佐に進級し[2]、3月2日に中支那派遣軍参謀に転じた[2]。1939年(昭和14年)3月31日に下志津陸軍飛行学校教官に再任され[2]、4月15日に飛行第27戦隊長(北支那方面軍)として中国戦線に復帰[1][2]。
1940年(昭和15年)9月27日に航空兵団司令部附となり[2]、12月2日に陸軍少将進級[2]、12月5日に第10飛行団長(南方軍・第5飛行集団)に着任し[1]、太平洋戦争に出征[1]。1943年(昭和18年)2月25日に水戸陸軍飛行学校長に転じ[1]、10月1日に仙台陸軍飛行学校長となる[1]。1945年(昭和20年)2月20日に第53航空師団長(航空総軍)に就任し[1]、4月30日に陸軍中将に進級[2]。終戦時は京城に位置した[1]。終戦後の9月1日に朝鮮軍管区司令部附となり、9月13日に第53航空師団長兼朝鮮軍管区司令部附となった[3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
- 勲章
脚注
参考文献
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4829500026。
廣田 豊(ひろた ゆたか)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 09:45 UTC 版)
「今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)」の記事における「廣田 豊(ひろた ゆたか)」の解説
連続溺死事件2人目の死者。久保田の古い仲間の1人。鑢の目立て職人をしている50歳男性。広島出身だが、原爆で全てを失って東京に出て来て独り働きしていた。水泳が上手く、祭りの度に道中合羽で繰り出してきたことから、下谷のカッパさんなどの綽名で呼ばれていた。三芳が出頭したその日、夷隅川水系の平沢川で、久保田と同じく尻を出した水死体として発見される。
※この「廣田 豊(ひろた ゆたか)」の解説は、「今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)」の解説の一部です。
「廣田 豊(ひろた ゆたか)」を含む「今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)」の記事については、「今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)」の概要を参照ください。
- 広田豊のページへのリンク