「大紛乱」時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:53 UTC 版)
ベルディ・ベク・ハンの死後、バトゥ・ウルスはバトゥ家が断絶して内乱状態に陥り、20年の間に20名あまりのハンが乱立する「大紛乱」と呼ばれる時代に入った。この内乱期に台頭してきたのが「カラ・キシ」と総称される非チンギス・カン裔の遊牧貴族と、シバン家の王族を戴くシバン・ウルスであった。 ロシア語史料の『ニコン年代記』はベルディ・ベク没後に即位したナウルーズを殺害して即位したのが「ヤイク河の向こうの帝王ヒズル」であると記しており、『高貴系譜』や『チンギズ・ナーマ』はこの「ヒズル」を「シバン・ハンの子孫のマングタイの息子」であるとする。ヒズルは当初ウズベクの正妃タイトグリの支援を受けてハンとなったがやがて両者は対立し、最終的にホラズム地方を統治するコンギラト族の支援を受けたヒズルがタイトグリの勢力を破ってサライを占領することに成功した。しかしこの内戦によってバトゥ・ウルスの混乱は深刻化し、安定を求めた民の多くが向かったのが西方クリム地方の「キヤト・ママイ」の勢力であった。 「大紛乱」以前より有力な「カラ・キシ」として著名であったキヤト氏のママイは、クリミア方面を拠点として傀儡ハンを擁立し、バトゥ・ウルスの西半分(ヴォルガ川以西〜クリミア地方)を実質的に支配した。ママイを実質的な最高指導者とするこの勢力は、ロシア語史料では「ママイ・オルダ」とも呼ばれていた。ママイ・オルダは従来のバトゥ・ウルスに代わってルーシ諸公国を間接支配し、モスクワ大公国のドミートリーは「ママイ公、帝王(ハン)、帝妃、諸侯たち」の順で伺候していたという。ただし、ジョチ・ウルス右翼たるバトゥ・ウルスの更に西半分しか支配しえないママイ・オルダはかつてのジョチ・ウルスよりも格段に勢力が低下しており、モスクワ大公国のドミートリー・ドンスコイは1378年のヴォジャ河畔の戦い、ついで1380年のクリコヴォの戦いでママイ軍を破ることに成功した。これらの戦いはバトゥのルーシ遠征以来初めてロシア人がモンゴル人に対して収めた勝利であり、モンゴル人のルーシ支配の脆弱化とモスクワ大公国の躍進に大きな影響を与えた。 一方、シバン家は南下してヒズル以後もサライ一帯を中心とするバトゥ・ウルス東半を支配し、「大紛乱」期に即位したハンの中でアズィーズ、ハサン、アラブシャー、イル・ベク、カガン・ベクらはシバン家出身であると伝えられている。イブン・ハルドゥーンはシバン家のハンはヤイク河口のサライチクに所領を有していたと伝えており、ヴォルガ川流域のサライ〜ヤイク川流域のサライチクを支配するシバン系勢力をロシア語史料では「ヴォルガ川の向こうの国」と呼称している。傀儡ハンを擁立する「カラ・キシ」と、シバン・ウルスによるバトゥ・ウルスの主導権争いという構図は、この後のトクタミシュによる再統一を挟んで15世紀初頭まで継続することとなる。
※この「「大紛乱」時代」の解説は、「バトゥ・ウルス」の解説の一部です。
「「大紛乱」時代」を含む「バトゥ・ウルス」の記事については、「バトゥ・ウルス」の概要を参照ください。
- 「大紛乱」時代のページへのリンク