日本に来たユダヤ難民とは? わかりやすく解説

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日本に来たユダヤ難民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「日本に来たユダヤ難民」の解説

ユダヤ難民1940年7月から日本入国し1941年9月には全員出国したこの間概要は、アメリカ・ユダヤ人合同流通委員会JDC)の年次報告書1940年版および1941年版記述されている。 1940年6月イタリア参戦し地中海航路閉鎖日本郵船欧州航路地中海立ち寄りはこれに先立ち閉鎖されていた。ドイツ圏ユダヤ救済委員会は、西半球への難民新し脱出ルートとして、やむなくシベリア鉄道ウラジオストクおよび満州里へ、そして日本経由する方法利用1940年7月ドイツおよびその他の国のユダヤ難民敦賀港などに上陸し始めた1940年10月からは、杉原ビザ持ったリトアニアポーランド系難民らが入国し始め1941年1月から3月にかけてその数は急増した難民総数は約4,500人で、うちポーランド系は2,000人あまりだった。ドイツとその他国籍の難民のほとんどは正規ビザ所有し短期間のうちに出国したが、キュラソー行きその他の不正なビザ所有難民新たな出国先を見つけるために長期滞在余儀なくされた。 リトアニアから国外脱出果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道乗りウラジオストク到着した次々極東押し寄せる条件不備難民困惑した本省は、以下のように、ウラジオストク総領事館厳命した。 「本邦在外官憲歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證全部貴館又ハ在大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」【口語訳大日本帝国官憲ヨーロッパから避難してくる人々与えた通過許可証は、あなたのところやソ連大使館もう一度調べて行先国に入る手続き終わっていることを証明する書類提出させてから、船に乗る許可与えること】 しかし、ハルビン留学生時代に共に勉学したウラジオストク総領事代理根井三郎は、難民たちの窮状同情し1941年昭和16年3月30日本省電信において以下のように回電し、官僚形式主義逆手にとって、一度杉原領事発行したビザ無効にする理由がないと抗議した。 「避難民ハ一旦當地到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スルニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國査證中南米トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印拒否スルハ帝國在外公館査證威信ヨリルモ面白カラス」【口語訳逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情あります日本領事出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由一律に船に乗る許可与えないのは、大日本帝国外交機関発給した公文書威信損なうことになるのでまずいと思います】 — 1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議電信 本省とのやり取りは五回にもおよび、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行き乗船許可証発給し難民救済あたった一度シベリア凍土潰えるかに見えた難民たちの命は、二人勇気ある行為によって救われた。後藤新平制定した同校モットー自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報い求めぬよう」というものであったこうした根井三郎人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、日本海汽船運航する連絡船天草丸に乗って敦賀港続々上陸連絡船内では、全米ユダヤ人協会からの依頼受けた日本交通公社ジャパン・ツーリスト・ビューロー)(現在のJTB)の社員であり、まだ入社2年目であった大迫辰雄が、ユダヤ人協会発行したリスト元にユダヤ難民救済協会から送金され現金手渡したほか、上陸後日本交通公社が、敦賀駅までのバス輸送神戸横浜までの鉄道輸送手配行った敦賀上陸時地元民見物人となり物珍しそうに上陸する姿を見ていたが、一部住民食べ物与えたり疲れた難民たちに銭湯無償開放する等の支援行なったその内ユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人コミュニティ関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸横浜辿り着くポーランド系難民の内、1,000人あまりはアメリカ合衆国パレスチナなどに向かい残りは後に上海送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟立役者でもあるが、個人的にユダヤ人に対して民族的偏見持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼り難民たちの窮状訴えると、松岡は小辻にある便法教えた。すなわち、避難民入国するまでは外務省管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部管轄変わり滞在延期については各地方長官権限委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄地方官吏たちを懐柔し、敦賀港1940年10月9日上陸時利用されゴム印には「通過許可昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港したときには、それが「入國許可・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日福井縣」に変わっていた。 日本とりわけ神戸にやって来たユダヤ難民たちは4000人とも言われ一部丹平写真倶楽部メンバーによって撮影された「流氓ユダヤ」と呼ばれる写真シリーズとして記録された。グラフィックデザイナー妹尾河童自伝少年H』(1997)も当時難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』1967)においても、「みな若いのに鬚を生やし午後四時になると風呂屋行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」いたという記述みられる

※この「日本に来たユダヤ難民」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「日本に来たユダヤ難民」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。

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