日本に来たユダヤ難民
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ユダヤ難民は1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。この間の概要は、アメリカ・ユダヤ人合同流通委員会(JDC)の年次報告書1940年版および1941年版に記述されている。 1940年6月、イタリアが参戦し地中海航路は閉鎖。日本郵船の欧州航路の地中海立ち寄りはこれに先立ち閉鎖されていた。ドイツ圏のユダヤ救済委員会は、西半球への難民の新しい脱出ルートとして、やむなくシベリア鉄道でウラジオストクおよび満州里へ、そして日本を経由する方法を利用。1940年7月、ドイツおよびその他の国のユダヤ難民が敦賀港などに上陸し始めた。1940年10月からは、杉原ビザを持ったリトアニアのポーランド系難民らが入国し始め、1941年1月から3月にかけてその数は急増した。難民の総数は約4,500人で、うちポーランド系は2,000人あまりだった。ドイツとその他国籍の難民のほとんどは正規のビザを所有し短期間のうちに出国したが、キュラソー行きやその他の不正なビザ所有の難民は新たな出国先を見つけるために長期滞在を余儀なくされた。 リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。 「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」【口語訳=大日本帝国の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えること】 しかし、ハルビンの留学生時代に共に勉学したウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。 「避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」【口語訳=逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、大日本帝国の外交機関が発給した公文書の威信を損なうことになるのでまずいと思います】 — 1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信 本省とのやり取りは五回にもおよび、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。 一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は、二人の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」というものであった。 こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、日本海汽船が運航する連絡船天草丸に乗って敦賀港へ続々上陸。連絡船内では、全米ユダヤ人協会からの依頼を受けた日本交通公社(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)(現在のJTB)の社員であり、まだ入社2年目であった大迫辰雄が、ユダヤ人協会が発行したリストを元にユダヤ難民救済協会から送金された現金を手渡したほか、上陸後も日本交通公社が、敦賀駅までのバス輸送や神戸・横浜までの鉄道輸送手配を行った。敦賀に上陸時、地元民が見物人となり物珍しそうに上陸する姿を見ていたが、一部の住民は食べ物を与えたり、疲れた難民たちに銭湯を無償で開放する等の支援を行なった。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸、横浜に辿り着く。 ポーランド系難民の内、1,000人あまりはアメリカ合衆国やパレスチナなどに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港したときには、それが「入國許可・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた。 日本、とりわけ神戸にやって来たユダヤ難民たちは4000人とも言われ、一部は丹平写真倶楽部のメンバーによって撮影された「流氓ユダヤ」と呼ばれる写真シリーズとして記録された。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H』(1997)も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』(1967)においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」いたという記述がみられる。
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