救った人数の公的記録とは? わかりやすく解説

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救った人数の公的記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「救った人数の公的記録」の解説

敦賀港から日本入国したユダヤ難民人数に関する公的記録は、空襲焼失し残っていない。関連する資料として 外務省外交史料館には、欧州避難民対す通過ビザ発給数(1940年1月41年3月今後見込み数)、内務省調べ入国者名簿一部山口県用紙 1940年7〜12月福井県用紙 1940年10月外務省調べ避難民人数 1940年1月41年2月)、内務省調べ滞在者の人数入国ビザ行先国および入国経路1941年2月8日3月20日4月8日)などがある。入国者名簿説明はないが、入国経路資料から山口県用紙下関港入国者福井県用紙敦賀港入国者推測される1940年10月敦賀港難民入国者306人、うちポーランド系203人でキュラソー行き24人(その他国2人加え合計26人)だった。これらポーランド系リトアニア系(36人)難民の約80%は、杉原ビザリスト掲載の人達と推測されている。キュラソー行きビザ所有および「ビザなし」のポーランド系滞在者が最も多かったのは1941年4月8日時点で、ポーランド系滞在者約1,400人中両者合計は約1,300人だった。入国経路調査によると、ポーランド系全員敦賀で、ドイツ系とその他は敦賀のほかに下関ドイツ系1940年7~12月829人)および神戸からも入国した。他に、1941年4月26日ウラジオストク滞留していたユダヤ難民大部分50名がソ連貨物船上海へ移送された。満州国は、行先国および日本通ビザ所有難民には、在外公館満州国通過ビザ10日以内)を発給した。 「杉原ビザ」(キュラソー行き日本通ビザ)を所有したユダヤ難民人数には、2,200、2,800、4,000、4,500、5,000、6,000、6,000〜8,0001万人など、多く資料がある。これらの根拠として、神戸および横浜在住ユダヤ人コミュニティ設置したユダヤ難民救済委員会(略称:Jewcom)報告入国者数および出国者数、当時在日ポーランド大使に関する資料新聞記事杉原ビザリスト、ポーランドビザ書式などが引用されている。これらのうち日本入国者について、資料記述されている入国者内訳月別国籍別)を表に示す。 2,200人はJewcomおよび在日ポーランド大使資料とほぼ同じ、2,800人はこの人数に約600人を加算、4,000〜6,000人はビザの数と新聞記事からの推定1940年外務省調査値とMoiseeff表のドイツ系人数はほぼ一致しドイツ系パスポートにJ文字朱印がありユダヤ人との認定容易だった。2,200人は日本入国したポーランド系難民全員が「杉原ビザ」を所有していたとの前提の値であるが、1940年10月入国ポーランド系中には約180人のキュラソー以外の行先ビザ所有者がいた。モスクワ大使館は、日本通ビザ1940年12月22件、41年1月32件、同2月80発給し3月発給した推測されるJDC年次報告書1940年版には、「1941年初め出国許可日本通ビザ取得比較容易だったが、問題交通費入手。4,000~5,000人の国移住希望者の中から米国ユダヤ団体協議して1,700人に支給した」とあり、当時国外へ移住を可能とする条件ビザ取得ではなく移住費用確保だった。 1983年9月フジテレビは、杉原夫妻と「日本に来たユダヤ人」の著者バルハフティクとの面談を含む「運命をわけた1枚ビザ―4,500ユダヤ人救った日本人」を放映題名は4,500だが、テレビの中では「神戸にきたユダヤ難民の数は正確には分っていないが、4,500人または5,000人とも言われている」と説明1985年1月18日イスラエル政府機関ヤド・バシェムは、杉原千畝に「職を賭して2,100~3,500ビザ発行」として「諸国民の中の正義の人」を授与1月17日日経朝刊毎日夕刊は「4,500人にビザ発行」、1月19日朝日夕刊は「約6,000人近い人を救う」、同日Japan Timesは「日本人 6,000人のユダヤ人救い栄誉」との見出しで「杉原は、東京から命令反して約6,000人のユダヤ人日本通ビザ発給した」と報道1986年7月杉原千畝逝去したとき、米国の各新聞は、杉原を「政府命令反してユダヤ人に約6,000日本通ビザ発給した外交官」と紹介し、死を悼んだ1990年出版の『六千人の命のビザ』には6,000人の根拠説明はなく、「6,000人の命を救う」との見出し英字新聞写真と、「5〜6,000人にのぼったと言われています」とのみ記述1992年出版の『日本に来たユダヤ難民』は、「1940年7月41年5月までの11か月間に4,664名の難民日本到着したそのうち2,498人がドイツ系で、残り2,166名がリトアニアからの難民だった」と記述し訳者滝川義人は「あとがき」で、日本側の資料例として1941年4月20日東京日日新聞掲載人数約4,000人を紹介2000年出版の『真相杉原ビザ』では、「1家族人数を3人とすればビザ数から妥当、6,000人との日本の新聞記事がある、大部分難民杉原発給したビザ持っていたことは今や認められている」と6,000人の根拠説明1992年出版日本語版『日本に来たユダヤ難民』には、敦賀港から入国した難民中には多くドイツ系がいたと記述されていたが、その後日本出版され著書資料は「敦賀港から入国した難民大部分は「杉原ビザ」を持っていた」とし、現在に至っている。 偽造を含む杉原発給した日本通ビザ入国した難民多くは、JDCや HICEM などのユダヤ難民救済団体ポーランド大使館および日本政府尽力新たな受入れ国を見つけて出国1941年8〜9月日本当局日米開戦控え日本滞留していた難民全員850人を上海へ移送した。日本ポーランドとは国交断絶し、在日ポーランド大使家族大使館員はポーランド系難民支援するために日本離れ1941年11月1日上海到着ポーランド系難民日本からの出国先は、Jewcom資料によると多い順に、上海860人、米国532人、パレスチナおよびカナダ186人、オーストラリア81人、南ア59人、その他207人、合計2,111人。上海渡った難民中には450名のラビ神学生含まれていた。 日本滞在後難民たちが向かった上海租界には、戦前よりスファラディ中心大きなユダヤ人コミュニティ上海ゲットー」があり、日本政府日英開戦後ドイツの圧力ありながらこれを黙認ユダヤ人たちはそこで日本降伏する1945年昭和20年)まで過ごすことになった

※この「救った人数の公的記録」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「救った人数の公的記録」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。

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