南満洲鉄道附属地
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南満洲鉄道附属地(みなみまんしゅうてつどうふぞくち)は、20世紀前半の満洲に存在した南満洲鉄道の所有地。所有権のみならず、行政権をも行使した。満鉄附属地(まんてつふぞくち)ともいう。
- 1 南満洲鉄道附属地とは
- 2 南満洲鉄道附属地の概要
- 3 概要
- 4 司法権及び警察権
満鉄附属地
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1905年(明治38年)にロシア帝国と締結したポーツマス条約により、日本は長春(寛城子)から旅順に至る東清鉄道南満洲支線を譲渡され、南満州鉄道(満鉄)と改名した。またロシアが“鉄道保護に必須の土地”として東清鉄道沿線で獲得していた鉄道附属地も日本に譲渡され、“満鉄附属地”と改称した。 この時、鉄道の分割点を巡って日露両国の意見が対立した。日本は寛城子駅での分割を主張したが、ロシアは寛城子駅を含まない長春以南での分割を主張し、寛城子駅及び附属地は日本と共有する事を提案した。1907年(明治40年)4月に分割点を孟家屯北方4kmの八里堡(後の南新京駅付近)と決定し、寛城子駅及び附属地は日露共有とした上で、実際の便宜上ロシアの占有に帰する事とし、評価の半額に相当する56万393ルーブルでロシアに有償譲渡した。 満鉄は寛城子駅及び附属地を得る事ができず、新たに長春に停車場を設けるため、長春城の北側、寛城子附属地の南東側に位置する「頭道溝」と呼ばれる一帯の買収に着手した。 当時、頭道溝付近は僅か十数戸の農家が点在する一面の高粱畑に過ぎなかった。1907年(明治40年)3月、満鉄は城内に進出していた三井物産長春出張所を通じて用地買収を実施したが、途中で現地官憲に発覚したため、日清両国政府間の外交交渉を経て、改めて現地官憲と用地交渉が開始された。買収価格は現地商埠公司の標準買収価格(日本円に換算して1坪あたり約10銭に相当)に若干上乗せを行い、立木・建物への補償も行った。同年9月までに買収が完了し、買収地は“満鉄長春附属地”と命名された。買収総面積は150万3448坪7合、買収代金は33万875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上り、この他に郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め、買収総額は約40万円となっている。 その後、水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地、日本領事館用に商埠地の一部(1万坪)を買収したため、1912年(明治45年)までに満鉄附属地の面積は152万8085坪となった。1926年(大正15年)に附属地西方機関区用地約100万m2、1932年(昭和7年)に国都建設区域に連なる地域(西部附属地と通称)72万8千m2を買収して、1933年(昭和8年)までに面積は210万6900坪まで拡がっている。 1906年(明治39年)に設立された南満洲鉄道株式会社は、1907年(明治40年)4月1日に鉄道の引継ぎを受け、寛城子駅と長春城の中間地(満鉄長春附属地の北部)に長春停車場(長春駅)の建設を開始し、同年9月1日に孟家屯と寛城子の間に仮停車場を設け、東清鉄道との接続運輸を開始した。同年11月3日の長春駅竣成に伴い貨物業務を開始、次いで12月1日から旅客業務を開始した。1909年(明治42年)2月22日から東清鉄道との接続運輸も長春駅で開始した。 長春駅の建設に合わせて市街地建設も着手し、1908年(明治41年)に第一期の市街計画が立案された。街路は矩形式街路と4本の斜路によって構成され、短辺60間(109m)、長辺120間(218m)の長方形を標準に、地形に応じて形状を変更した。長春駅南側に半径50間(91m)の円形広場(北広場)を設け、この広場を中心に放射状に道路網を建設した。駅前広場から南方に長春大街(1921年に中央通に改称)、それに並行する道路として、西一條街〜西三條街、東一條街〜東六條街の街道、斜路として東斜街(後の日本橋通)、西斜街(後の敷島通)、広安街(後の大和通)、懐徳街(後の八島通)が設けられ、街路と斜路の交点には西広場、東広場(後に南広場に改称)、北角広場(後に東広場に改称)等の広場が設けられた。また南端には西公園(後に児玉公園と改称)が設けられた。中央通は幅員20間(36m)、日本橋通は幅員15間(27m)で建設されたが、商埠地と結ばれた日本橋通沿いに商店が建ち並んで発展した。なお、日本橋通の名称は、満鉄附属地と商埠地の境界付近を流れる伊通河支流に架かっていた「日本橋」に由来する。 1921年(大正10年)、街路や街区が中国風の名称から日本風の名称に改められ、中央通の西側は長春駅に近い街区からいろは順に和泉町・露月町・羽衣町・錦町・蓬莱町・平安町・常盤町・千鳥町、東側はひふみ順に日之出町・富士町・三笠町・吉野町・祝町・室町・浪速町・弥生町と町名が付けられた。弥生町以南は、後に五十音順に曙町・入船町・梅ヶ枝町・永楽町・老松町と名付けられている。また、1932年(昭和7年)に西部附属地を取得すると、水仙町・柏木町・桔梗町・芙蓉町・山吹町・白菊町・菖蒲町・花園町・桜木町と花木の名前を冠した町名が付けられた。 満鉄は電気・ガス・上下水道のインフラを整備し、日本領事館(後に商埠地側の新取得地に移転)、病院、学校、公園等の公共施設、長春ヤマトホテル、満鉄事務所、憲兵隊分遣所、警察署、郵便局等を建設した。市街地造成後、公共用地以外の土地は華人を含む民間に有料で貸付けられた。1920年代末には附属地人口は26,000人に達していた。 なお、新京特別市が成立した後も暫くは満鉄附属地として存続し、1937年(康徳4年)12月1日の治外法権撤廃により、正式に新京特別市の行政下に置かれている。
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