満鉄附属地とは? わかりやすく解説

南満洲鉄道附属地

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 01:19 UTC 版)

南満洲鉄道附属地(みなみまんしゅうてつどうふぞくち)は、20世紀前半の満洲に存在した南満洲鉄道の所有地。所有権のみならず、行政権をも行使した。満鉄附属地(まんてつふぞくち)ともいう。




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満鉄附属地

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新京」の記事における「満鉄附属地」の解説

1905年明治38年)にロシア帝国締結したポーツマス条約により、日本長春寛城子)から旅順に至る東清鉄道南満洲支線譲渡され南満州鉄道満鉄)と改名した。またロシアが“鉄道保護必須の土地”として東清鉄道沿線獲得していた鉄道附属地日本譲渡され、“満鉄附属地”と改称した。 この時、鉄道分割点を巡って日露両国意見対立した日本寛城子駅での分割主張したが、ロシア寛城子駅を含まない長春以南での分割主張し寛城子駅及び附属地は日本共有する事を提案した1907年明治40年4月分割点を孟家屯北方4km八里堡(後の南新京駅付近)と決定し寛城子駅及び附属地は日露共有とした上で実際便宜上ロシア占有帰する事とし、評価半額相当する56393ルーブルロシア有償譲渡した満鉄寛城子駅及び附属地を得る事ができず、新たに長春停車場設けるため、長春城の北側寛城子附属地の南東側位置する「頭道溝」と呼ばれる一帯買収着手した当時、頭道溝付近は僅か十数戸の農家点在する一面高粱畑に過ぎなかった。1907年明治40年3月満鉄城内進出していた三井物産長春出張所通じて用地買収実施したが、途中で現地官憲発覚したため、日清両国政府間の外交交渉経て改め現地官憲用地交渉開始された。買収価格現地商埠公司標準買収価格日本円換算して1坪あたり約10銭に相当)に若干上乗せ行い立木建物への補償行った同年9月までに買収完了し買収地は“満鉄長春附属地”と命名された。買収総面積1503448坪7合、買収代金33875円74銭(坪あたり平均22銭強)に上りこの他郭爾羅斯前旗王府にも上納金を納め買収総額は約40万円となっている。 その後水源地用に伊通河支流沿いの北方隣接地日本領事館用に商埠地一部1万坪)を買収したため、1912年明治45年)までに満鉄附属地の面積1528085坪となった1926年大正15年)に附属西方機関区用地100万m2、1932年昭和7年)に国都建設区域連なる地域西部附属地と通称728千m2を買収して1933年昭和8年)までに面積2106900坪まで拡がっている。 1906年明治39年)に設立され南満洲鉄道株式会社は、1907年明治40年4月1日鉄道引継ぎを受け、寛城子駅と長春城の中間地(満鉄長春附属地の北部)に長春停車場長春駅)の建設開始し同年9月1日に孟家屯と寛城子の間に仮停車場設け東清鉄道との接続運輸開始した同年11月3日長春駅竣成に伴い貨物業務開始次いで12月1日から旅客業務開始した1909年明治42年2月22日から東清鉄道との接続運輸長春駅開始した長春駅建設合わせて市街地建設着手し1908年明治41年)に第一期市街計画立案された。街路矩形街路と4本の斜路によって構成され短辺60間(109m)、長辺120間(218m)の長方形標準に、地形に応じて形状変更した長春駅南側半径50間(91m)の円形広場北広場)を設け、この広場中心に放射状道路網を建設した駅前広場から南方長春大街(1921年中央通改称)、それに並行する道路として、西一條街〜西三條街、東一條街〜東六條街の街道斜路として東斜街(後の日本橋通)、西斜街(後の敷島通)、広安街(後の大和通)、懐徳街(後の八島通)が設けられ街路斜路交点には西広場、東広場(後に南広場に改称)、北角広場(後に東広場改称)等の広場設けられた。また南端には西公園(後に児玉公園改称)が設けられた。中央通幅員20間(36m)、日本橋通幅員15間(27m)で建設されたが、商埠地結ばれた日本橋通沿いに商店建ち並んで発展した。なお、日本橋通の名称は、満鉄附属地と商埠地境界付近流れ伊通河支流かっていた「日本橋」に由来する1921年大正10年)、街路街区中国風の名称から日本風の名称に改められ中央通西側長春駅に近い街区からいろは順和泉町露月町・羽衣町錦町蓬莱町平安町常盤町千鳥町東側はひふみ順に日之出町富士町三笠町吉野町祝町室町浪速町・弥生町町名付けられた。弥生町以南は、後に五十音順曙町入船町梅ヶ枝町・永楽町老松町名付けられている。また、1932年昭和7年)に西部附属地を取得すると、水仙町・柏木町桔梗町芙蓉町・山吹町白菊町菖蒲町花園町桜木町花木の名前を冠した町名付けられた。 満鉄電気・ガス上下水道インフラ整備し日本領事館(後に商埠地側の新取得地に移転)、病院学校公園等公共施設長春ヤマトホテル満鉄事務所憲兵隊分遣所、警察署郵便局等を建設した市街地造成後、公共用地以外の土地華人を含む民間有料貸付けられた。1920年代末には附属地人口は26,000人に達していた。 なお、新京特別市成立した後も暫くは満鉄附属地として存続し1937年康徳4年12月1日治外法権撤廃により、正式に新京特別市行政下に置かれている。

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